平安時代日本の歴史

平安時代の文化10選!服装、本、貴族の遊びに建築…すぐわかる平安時代の暮らし

平安時代といえば?都を奈良から京都へ移し400余年続いた時代であることは誰もが知るところ。遣唐使が廃止されて国風文化が栄え、「源氏物語」や「枕草子」が書かれ、平等院鳳凰堂が建てられ、「院政」が盛んに行われ、後半に入ると源氏や平家といった武士が台頭し始めるという、優雅でありながら日本の歴史が大きく動いた時代でもありました。そんな平安時代の人々とは、いったいどんな暮らしをしていたのでしょうか。今回の記事では、平安時代の出来事ではなく文化や暮らしに着目。どんな服を着てどんな家に住み、どんなことを学んでどんな遊びをしていたのか等々、平安時代の文化についてひも解いていきたいと思います。

知っているようであまり知らない……平安時代の文化とは?

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雅で華やかで、絵巻物などに描かれているような美しい世界……平安文化というと、そんな光景をイメージする方も多いと思います。以下の記事では、平安時代の人々がどのような暮らしをしていたのか、服装や住居、本など、具体的なキーワードごとにテーマを設定。平安時代の文化について詳しく解説してまいります。

1)まずは基礎知識!平安時代とはどんな時代?

平安時代とは、794年(延暦13年)に都を京都へ移してから1185年(文治元年)/に平家が滅亡し、後に源頼朝が鎌倉幕府を立てるまでのおよを400年間の時代のことを指します。平安時代の終わりを何年とするかについては、いくつかの解釈があるようです。

非常に長い期間を指す時代区分であり、前期と後期では政治の様子もがらりと変わります。初期の頃は奈良時代から続く律令制度(中央集権制)を粛々と維持。しかし中盤から後期にかけて「摂関政治」や「院政」といった政治が盛んにおこなわれ、天皇とのつながりを強めることで権力を強めようとする者たちが暗躍します。こうした権力争いの影響もあって、田畑の開墾も、律令に基づく班田制から荘園制度(私有地)へと移行。広大な荘園を得た者たちがますます力を強めた時代でもありました。

【平安時代の主な出来事】

794年   平安京(京都)へ遷都
797年   坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される
819年   空海が高野山に金剛峯寺を建立する
894年   遣唐使が廃止される
901年   菅原道真が太宰府へ左遷される
1000年頃 『枕草子』『源氏物語』成立
1086年   白河上皇、院政を開始
1156年   保元の乱勃発
1159年   平治の乱勃発
1167年   平清盛が太政大臣となる
1185年   壇ノ浦の戦いにより平家滅亡

2)平安時代の都・平安京の様子とは?

平安京は、鴨川と桂川という二つの大きな川に挟まれた合流点の平地に築かれました。当時、荷物の運搬の主流は水路。生活用水の確保も、都市建設の重要なポイントとなります。遷都を決めた桓武天皇は、平城京より大きな都を作るため、この地を選んだのでしょう。

東西およそ4.5㎞、南北に5.2㎞ほどに広がる長方形の土地に、まず大路(おおじ)と呼ばれる大通りが縦横に整備され、その間に小路(こうじ)と呼ばれる細い通りが碁盤の目のように張り巡らされています。通りにはひとつひとつ、一条大路、二条大路、朱雀大路など名前が付けられ、通りに囲まれたブロックにそれぞれ建物が建てられていました。そのため、誰の家がどこにあるのか大変わかりやすかったといわれています。敷地の一番北側部分に、大内裏と呼ばれるひときわ大きなブロックがあり、この中に内裏(天皇の住居)がありました。

3)平安貴族の男性の服装とは?

平安時代の貴族たちはどのような服を着ていたのでしょうか。まずは男性編です。

男性貴族の正装は、束帯(そくたい)と呼ばれていました。朝廷の行事など正式な場に出向くときにに身に着けるもので、身分や官位によって様々なバリエーションがあったようです。染色や織物などの技術向上により、衣服も多様化していたと考えられている平安時代は、女性より男性のほうが服装や身だしなみに気を配っていたとも言われています。

全体的にゆったりとした装束が主流で、袖が長いのが特徴。笏(しゃく・手に持つ長い板のようなもの)を持つのが一般的ですが、太刀や弓の付帯が許される場合もあったようです。初期のころは着方が複雑で決まり事も多かったようですが、時代が進むにつれてだんだんシンプルになっていったと考えられています。

自宅でくつろぐときは直衣(のうし)と呼ばれる、やはり袖の長いゆったりとした服が主流に。狩や蹴鞠など、屋外で遊ぶときは狩衣(かりぎぬ)という、腕を動かしやすいよう袖のつけ方を工夫した服装が好まれていました。

4)平安貴族の女性の服装とは?

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平安時代の服装、続いて女性編です。女性の服装といえば、十二単(じゅうにひとえ)が基本でした。様々な色や絵柄の衣を重ね着したもので、女房装束などと呼ばれることもあります。現代でも、皇室の行事などに用いられることがあるので、ご存じの方も多いでしょう。

重ね着する衣にもそれぞれ名前がついています。裳、長袴、単衣、五衣、打衣、表着など様々な色合いの衣を重ね、一番上に唐衣と呼ばれる衣を羽織って完成。唐衣は一番上に着るものなので、一番美しく鮮やかに作られています。また、少し袖や裾を短くして、重ね着した内側の衣も見えるように工夫されているところも特徴です。一方、自宅でくつろぐときは唐衣を身に着けず、袴と単衣姿。必要に応じて小袿と呼ばれる衣を羽織るなど、場に合わせていろいろ組み合わせておしゃれを楽しんでいたようです。

平安時代の京都は、21世紀の京都より全体的に気温が低めだったと考えられていますが、それでも夏は暑かったはず。しかし身分の高い貴族たちが薄衣一枚で外をふらつくわけにもいきません。男女問わず、重ね着しても涼しいよう、袖口や腰回りがゆったりとした服装が主流となっていったと考えられています。

5)平安時代の庶民の暮らしとは?

都に暮らしていたのは貴族だけではありません。下働きの者たちや商人、周辺地域には農民たちも大勢暮らしていました。しかし、貴族たちと異なり、庶民の暮らしぶりを示す資料は非常に少なく、わかっていないことも多いのです。

のんびりと優雅な暮らしをしていた貴族たちと違い、庶民たちはぎりぎりの生活を送っていたと考えられています。米を食べる機会はほとんどなく、雑穀や豆、芋などを主食に野菜中心の粗末な食事で暮らしていました。住まいも、板で葺いた屋根の上に石を乗せた簡素な家が主流でした。農民たちに至っては、竪穴式住居のような形状の住まいだったといわれています。

それでも、都には多くの人が集まっていました。平安京には10万人近い人々が暮らしていたと考えられており、ビジネスチャンスも多数。物売りのほかにも土木や大工仕事の職人も多く集まり、大変な賑わいを見せていたのだそうです。

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