平安時代日本の歴史

5分でわかる壇ノ浦の戦い!なぜ源氏が勝ち平氏は滅亡した?原因をわかりやすく解説!

平安時代末期に起こった源平の戦い。治承寿永の乱とも呼びますが、すでに力をなくした天皇や貴族の手から政治の実権が離れ、力を持った武士同士による政権争いだったという面が大きいのです。戦いに勝った源氏はこの後700年近い武家政治の先駆者となり、新しい武士の世の中を作り出すことになりました。しかし敗北した平家(平氏)とて西国を中心に多くの支配地を持ち、政権の中枢をも担っていましたから、そう簡単に滅びることはないはずです。では源頼朝の挙兵からたった6年でなぜ平家が滅びてしまったのか?壇ノ浦の戦いをひも解くと共に、その動きを読み取り理由を探っていきましょう。

1.平氏の興隆~平家にあらずんば人にあらず~

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歴史の表舞台に源頼朝が登場する以前、平家は朝廷の中枢を担って活躍していました。平家の棟梁だった平清盛の力によるところが非常に大きかったのです。大河ドラマの主人公にもなったこの清盛。この人がいなければ後の武家政権も成立しなかったかも知れません。

1-1皇室・貴族の代理戦争として始まった保元の乱

平安時代も末期となった1156年、京都で大きな戦いが起こりました。それは天皇の跡継ぎ問題や、貴族のトップに君臨する藤原氏の権力争いなどが絡んだ複雑なものでした。

長きにわたって権力をふるい続けた鳥羽法皇が亡くなった後、残された天皇と上皇の主導権争いに端を発し、上流貴族や武士たちを巻き込んだ争乱に発展したのです。

かつて鳥羽法皇に無理やり退位させられた崇徳上皇は、鳥羽法皇の血を継ぐ後白河天皇に邪魔されて院政を行うことができず不満を持っていました。

いっぽう後白河天皇は、自分に不満を持つ崇徳上皇を追い落としたい。このような利害関係から起こった争いだったわけですが、ここで戦力となって活躍したのが武士だったのです。

1-2.保元の乱の結果、武士の力が台頭

この戦いで完全に主導権を握ったのは後白河天皇側でした。この当時は卑怯とされ、禁じ手でもあった夜討ちによって崇徳上皇側に先制攻撃を仕掛けたのです。

その結果、平清盛、源義朝らを擁した後白河天皇側が完全勝利を果たし、崇徳上皇は流罪、藤原頼長は討ち死、それに加担した源為義たちの武士は死罪となったのでした。

そもそも「天皇・上皇の流罪」や「死罪の復活」など、いずれも前代未聞のことで、人々は大いに驚いたといわれています。また朝廷内の争いが身分の低い武士の力によって解決された事実も特筆すべきことだったでしょう。

この戦いをきっかけとして、武士の力がモノをいう時代へと変わっていくのです。

<保元の乱における人間関係を解説>

 

上皇

帝の位を次代に譲り渡した天皇のこと。実際は上皇になってもなお政治の実権を持ち続け(院政)、天皇の権力すら凌駕する存在となりました。治天の君ともいわれます。

 

法皇

上皇が出家すると呼ばれる呼び名。後白河天皇もまた上皇→法皇となって隠然たる権力を持ち続けることになるのです。

 

藤原頼長

藤原氏のトップ的存在。独善的で苛烈な政治を進めたため鳥羽法皇にも嫌われ、「悪左府」とも呼ばれました。

 

源為義

源氏の棟梁。藤原頼長の家人だったため必然的に上皇側に味方します。しかし万が一敗れた時のことを想定して、息子の義朝は天皇側に付かせることに成功しました。

1-3.代理戦争で敵対する平家と源氏

保元の乱から3年後、またしても武士の力が発揮される戦いが起こりました。それが「平治の乱」という争いです。この戦いによって平家の棟梁である平清盛は、藤原家を凌ぐ権力を手に入れ、その勢力を盤石のものとしたのでした。

この戦いの発端はまたしても後白河上皇(すでに天皇を退位していた)でした。上皇の力があまりに大きかったため、彼を取り巻く近臣たちは絶えず政治闘争や派閥争いを繰り返していました。

元は低い身分の出身ながらも国の改革を進めようとする信西、そしてライバル信西の力を取り除こうとする藤原信頼の争いに発展したのです。

信西に味方したのが平清盛。かたや藤原信頼に味方したのが源義朝でした。

1-4.ついに平家による政権が誕生する

信頼や義朝がもっとも恐れたのが清盛でした。まともに戦えば勝ち目は薄いわけで、何とかチャンスをうかがっていたのです。

やがて熊手詣に出かけていた清盛が留守の間に、ついに信頼・義朝は後白河上皇を軟禁し信西を討ち果たします。しかし急報を聞いて取って返した清盛の行動は素早く、すぐに軍勢を催して反撃に移りました。

二条天皇を保護した後に後白河上皇も救出。あまりに速い行動で混乱する敵陣営を尻目に、圧倒的兵力で義朝たちを打ち負かしたのでした。義朝は逃れる途中で家臣の裏切りに遭い死去。捕まった信頼は即刻処刑されたのです。

既に藤原摂関家もまったく力を失い、こうした一連の戦いによって勝利の立役者である平家の地位は飛躍的に向上し、一門をあげて栄達することになったのでした。そして清盛も武士として初めて太政大臣に叙任されたのです。

清盛は自らの娘を天皇の皇后とし、初めて平家の血を引く天皇が誕生しました。それが安徳天皇だったのです。

 

「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」(平家にあらずんばひとにあらず)

平家一門だった平時忠の言葉

2.源氏の挙兵。そして追い詰められる平家~平家の都落ち~

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清盛の力で全盛期を迎えた平家でしたが、こうした平家の栄達に対して快く思わない勢力も存在していました。それが他ならぬ後白河法皇だったのです。いっぽう政権を独占して驕り高ぶる平家に嫌気がさして、人心は平家から離れていくことに。そうした中、いよいよ東国では源氏が再起をかけて挙兵しようとしていました。

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