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鎌倉幕府を落とした「新田義貞」この男の生き様をわかりやすく解説!

「鎌倉を落とした男」として名高い武将・新田義貞(にったよしさだ)。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した人物ですが、名前はよく聞くけどどういう人物なのか詳しく知らない、という方も多いのではないでしょうか。鎌倉幕府を倒して新しい武家社会を築いた立役者でありながら、時代に翻弄され志半ばにして命を落とした不遇の武将。今回の記事では、そんな新田義貞にスポットをあて、38年の生涯に迫ってみたいと思います。

新田義貞の生涯(1)出生から鎌倉攻めまで

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鎌倉攻めの功労者として名高い新田義貞ですが、出生や若いころの様子などについては詳しくわかっていません。現在の群馬県周辺を治めていた豪族の血筋ではありますが、当時の新田氏は決して高い身分ではなく、どちらかというと冷遇されていたと伝わっています。そんな時代に生まれた新田義貞はなぜ鎌倉攻めを決行したのでしょうか。まずは新田義貞のターニングポイントとなる鎌倉攻めまでの流れをたどってみたいと思います。

生まれは上野国(現在の群馬県)・源氏の家系

新田義貞は上野国(こうずけのくに・現在の群馬県のあたり)の新田荘(にったのしょう・現在の太田市のあたり)を治めていた豪族・新田氏の家に生まれました。

誕生は1301年(正安3年)頃と言われています。

1318年(文保2年)、父・朝氏が死去。義貞は新田氏八代目の当主として家督を継ぐことになります。

新田氏は上野源氏とも呼ばれており、源氏の血を引く血筋。古くは広大な農地を所有する一族でしたが、北条氏との折り合いが今一つよくなかったようで、義貞が家督を継いだ頃は領地も少なく、ほとんど無位無官。決して裕福とは言えず、苦しい生活を強いられていたようです。

そのせいもあるのか、義貞の若いころの記録はほとんど残されていません。

上野国の厳しい自然と身分の低さ・肩身の狭さ、貧しさ。苦しい日々を送りながら、新田義貞は日々武芸に励み、機会をうかがいつつ、自分を冷遇する鎌倉幕府に仕えていました。

楠木正成の挙兵と鎌倉幕府倒幕・義貞の葛藤とは

1331年から1333年、鎌倉末期に起きたのが、世にいう元弘の乱(げんこうのらん)です。

打倒鎌倉幕府を掲げる後醍醐天皇勢力と、鎌倉幕府+北条氏との勢力争い。はじめのうちは後醍醐天皇の悪あがきのような感じもあって、幕府圧勝かと思われていましたが、次第に全国各地で後醍醐天皇に賛同の声があがります。鎌倉幕府に不満を抱く者は少なくなかったようです。

そして1332年、あの楠木正成が挙兵。後醍醐天皇側につき、倒幕に動きます。

楠木正成といえば日本史最大の英傑・軍神と呼ばれる名将。南北朝を舞台にした『太平記』でも無敵の戦術家として描かれています。鎌倉幕府討伐の折も、数十万の大軍相手に心理戦を展開したり、奇想天外なゲリラ作戦を決行したり、あの手この手で敵を翻弄。時に非道な手を使うこともあり、勝利のためなら手段を選びません。

そんな楠木正成の挙兵を受け、鎌倉幕府は新田義貞ら御家人たちに制圧を命じます。

かくいう新田義貞も、鎌倉幕府に不満を抱く一人。楠木正成が挙兵した千早城の戦いにいったんは参戦しますが、病気(仮病か?)を理由に勝手に上野国に帰ってしまいます。

鎌倉幕府への反発なのか、ほかに何か考えがあってのことか、あるいは本当に病気だったのか、楠木正成の前に恐れをなしたのか……義貞がなぜ勝手に帰ってしまったのかについては諸説あるようです。

永遠のライバル・足利尊氏の存在と鎌倉攻め

話は少し逸れますが、新田義貞の生涯を語るうえで重要なキーパーソンとなるのが、同じく源氏の流れを汲む足利氏の出で、のちに室町幕府を開いて征夷大将軍となる足利尊氏(あしかがたかうじ)です。

ほぼ同世代、同時期に生きた新田義貞と足利尊氏。しかし足利家は鎌倉幕府と密接なつながりを持ち、幕府内でも高い地位についているエリート一族。源氏の血筋としては新田氏のほうが本筋に当たりますが、現実には足利氏のほうが優遇されていたのです。

さて、話を本題の「新田義貞の鎌倉攻め」に戻しましょう。鎌倉幕府の命に背き、勝手に戦場を離れてしまった新田義貞。上野国に戻ると、翌年1333年、打倒鎌倉幕府を掲げて挙兵します。

いよいよ、反旗を翻すときがやってきました。

新田義貞が新田荘で挙兵したときは、数百騎のこじんまりとしたものだったそうです。しかし心の中には熱いものがある。義貞は上野国を出立し、幕府軍を制圧しながら一路鎌倉を目指して南下を続けます。

鎌倉に近づくにつれ、この新田義貞の軍勢に加わる兵が増えていきました。そして利根川を渡った頃に、足利尊氏の嫡男・千寿王と合流。千寿王が加わったことで、義貞の軍に加わりたいと名乗りを上げる者が続出し、義貞軍は一気に20万騎以上にも膨れ上がります。

挙兵から半月!鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞

ライバル・足利尊氏の嫡男が加わったことで、勢いを増した新田義貞軍。武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)に入って鎌倉街道を南下し続けます。

途中、待ち受ける幕府軍と幾度となく激突。激しくぶつかり合いながら、じりじりと駒を進め、ついに鎌倉の手前までやってきました。

しかし鎌倉という土地は三方を山、一方を海に囲まれた狭い平地。まさに天然の要害です。新田軍の動きを察知した幕府は、地形を活かして兵を配置し戦々恐々。新田軍は鎌倉の手前まで進軍しますが、攻め込むことができず苦戦を強いられます。

地元・上野国で決起してからおよそ10日後、新田義貞は海側(稲村ケ崎)からの侵入に成功。新田軍は一気に鎌倉に攻め込み、周囲に火を放って幕府を制圧します。

前述の『太平記』では、新田義貞が海に向かって黄金の太刀を投げたとたん、龍神が現れ潮が引いたとの記述がありますが、龍神の下りはもちろん脚色。おそらく干潮時に進軍したのであろうと考えらえています。

2日後、北条高塒が自害。

挙兵からわずか半月。新田義貞はついに、鎌倉幕府陥落を成し遂げたのです。

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