室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる朝倉義景の生涯!なぜ滅んだ?一乗谷文化とは?歴史系ライターがわかりやすく解説

2-4.刀根坂での決定的な敗戦

これまで幾度も信長との決戦を避け続けてきた義景でしたが、ついに応じねばならない時がやって来ました。浅井長政の小谷城が織田の大軍3万によって包囲されたからです。

義景は諸将に出陣命令を下すも、これまでの優柔不断さから信頼を失っており、多くの家臣が出陣を渋って出てこなかったそうですね。それでもなんとか2万をかき集めた義景は、小谷城の裏手に陣を敷いて織田方と対峙します。

1573年8月2日、またもや士気の上がらない朝倉勢は突如として信長による奇襲攻撃を受けてしまいました。折からの暴風雨によって防御もままならず、ほとんど戦うこともないまま敗走を始めたのです。

やがて刀根坂というところで織田軍によって追い付かれ、一方的な殲滅戦が展開されました。義景は命からがら脱し、なんとか一乗谷へたどり着くものの、従う者は10人程度という有様。これでは一乗谷を守るどころではありません。

2-5.炎上する一乗谷

一乗谷を守るべき兵士を持たない義景は、懸命に兵を集めようとしますが誰も応じるものはありません。今回参陣しなかった従兄弟の景鏡が合流してきたのみでした。

そこで景鏡の進言を受けて、いったん山奥へ落ち延び、再起を図ろうということになったのです。また近くの平泉寺の僧兵たちに援助を乞いますが、すでに織田へ内通していた彼らは一乗谷へ乱入。手当たり次第に放火し、100年の栄華を誇った一乗谷は炎上してしまいます。

8月20日、賢松寺というところに逃れていた義景一行は、突如として敵の攻撃を受けました。それは誰あろう景鏡の差し向けた軍勢だったのです。この土壇場で従兄弟に裏切られてしまったわけですね。

観念した義景は従容と自害。また側室の小少将や愛王丸らも捕らえられて殺害されてしまいました。ここに朝倉氏の嫡流は滅び去ってしまったのです。

3.朝倉氏が滅んだ謎を解明してみよう!

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朝倉氏が滅んだ理由は、やはり当主の義景にトップとしての器がなかった。ということに尽きるでしょうか。しかし理由はそればかりではないような気もします。筆者も歴史系ライターを名乗っている以上は、一辺通りの通説を語るだけでは片手落ちです。もう少し深堀りして「朝倉氏滅亡の謎」に迫ってみましょう。

3-1.最愛の嫡男を亡くして引きこもりになった義景

文弱に流れて凡庸な武将だったという評価がなされている義景ですが、若い頃はそうでもなかったようです。16歳で家督を継ぎ、老将朝倉宗滴の薫陶を受けた義景は、自らが戦場に赴くなど精力的に活動していました。

しかしそんな中、彼の人生最大の悲しみが訪れます。義景の嫡男として生まれ、将来を嘱望していた阿君丸(くまぎみまる)がわずか7歳で夭折してしまったのです。

深く悲しんだ義景は、それ以来何もかもやる気をなくし、政務すら放棄して自らの屋敷に引きこもってしまったのでした。せっかく足利義昭を懐に入れながら上洛の軍を起こさなかったのも、そこに原因があるともいわれていますね。

3-2.愛妾を溺愛しすぎた義景

しかし、そんな義景にとって青天の霹靂のような出来事が起こりました。家臣たちの勧めで小少将という女性を側室に迎えたのです。

この女性はまさに絶世の美女ともいうべき美貌で、悲しみに打ちひしがれたはずの義景は小少将の魅力に憑りつかれていきます。

しかし、やる気を取り戻すどころか、ますます政務を放り出して遊興に耽ることになりました。そんな義景の姿を見た家臣たちが愛想を尽かしたのも仕方のないところでしょうか。

ちなみに朝倉氏が滅亡した折、小少将と息子の愛王丸も殺されることになりましたが、「朝倉始末記」という書物の中では、この小少将こそが国を傾け滅亡へ追い込んだ元凶だと指摘しています。

この朝倉始末記が書かれたのは1577年のことで、朝倉氏滅亡してまだ4年しか経たないことから、非常に信憑性があるとされていますね。

3-3.織田氏と朝倉氏の因縁に関係が?

そもそもなぜ織田信長と朝倉義景はこんなにも反目し合っていたのでしょうか?発端は義景が上洛命令に従わなかったからだとされていますが、実は織田と朝倉の過去の因縁に関係があるのです。

かつて越前国を支配していたのは守護の斯波氏でした。斯波氏といえば室町幕府の中で三管領にも数えられる有力大名で、強大な権力を誇っていたといいます。

そんな斯波氏の家臣の中にいたのが織田氏と朝倉氏だったのです。織田氏といえば尾張というイメージが強いのですが、実は越前の出身で、越前の織田庄に居住していたといいますね。

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Bariston投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

越前時代は織田と朝倉の間で縁組なども行われて姻戚関係があったようで、そのためか両家の家紋は非常に似たものになっています。

織田氏の家紋

朝倉氏の家紋

こういった形の家紋を【木瓜(もっこう)】と呼びますが、元々は朝倉高清が源頼朝から賜ったもの。それが朝倉氏から織田氏へ受け継がれたとされています。やがて斯波氏の分国が尾張へ拡大すると、織田氏もそれに従って尾張へ下向したのですね。

いずれにせよ浅からぬ因縁があった織田と朝倉は、戦国時代には共に戦国大名としての道を歩みました。ところが信長が先んじて義昭を擁して畿内を手中に収め、義景へ上洛命令を発したのでした。

3-4.時代が読めなかった義景

ここで義景の胸中を推し量ってみましょう。

 

「朝倉と織田とは元は同じ斯波の家臣ではないか。いわば同格じゃ。それを差し置いて偉そうに上洛せよだと?上から目線で物申すとは何事!身の程をわきまえよ信長!」

 

こんな感じだったのでしょうね。織田に対するジェラシーから上洛命令に対して無視を決め込んだ。そう考えても不思議ではないですよね。

いずれにせよ、義景は時勢を見誤ったことに変わりはありません。

4.一乗谷朝倉氏遺跡の見どころをご紹介!

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せっかくですので、今や福井県の大きな観光スポットの一つでもある一乗谷朝倉氏遺跡について、見どころをいくつかご紹介していきましょう。歴史好きの方ならぜひ訪れて頂きたい場所です。

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