歴代当主の中でも朝倉孝景は文化の発展と保護に非常に熱心だったようです。臨済宗の僧侶月舟寿桂は、孝景のことをこう論じていますね。
「治世よろしく、将帥に兵法を論じて厳、詩歌を評して妙である」
引用元 「幻雲文集」より
また京都五山の僧春沢永恩は孝景のことを「風流太守」と呼び、文化に理解がある良将ぶりを高く評価しました。いずれにせよ、この孝景の治世にあたる36年間が朝倉氏にとって黄金時代だったといえるでしょう。
1-7.一族の重鎮、朝倉宗滴の死
1548年、黄金時代を築いた孝景が急死すると、跡を継いだのは嫡男の長夜叉丸でした。やがて長じて義景と名乗ります。
そんな中、若き当主を支えたのが老齢の朝倉宗滴(教景)で、彼は東では一向一揆と戦い、西では北近江の浅井氏や、若狭の武田氏を支援するなど東奔西走して朝倉氏の武威を示し続けました。
まさに朝倉氏の柱石ともいわれる存在で、1555年に宗滴が亡くなると、朝倉氏はまるで坂を転がり落ちるように滅亡への道を辿り始めるのです。
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1-8.織田信長と敵対する
1566年、越前へ流浪してきた足利将軍の弟義昭を保護するものの、ついに上洛の軍を起こすことはありませんでした。
背後には一向一揆勢がいて、それどころではなかったという言い訳もできますが、結果的に義昭は尾張の織田信長を頼り、ついに上洛を果たして一旦は室町幕府を再興させるのです。
上洛して京都を手中に収めた信長は、義昭の名のもとに再三義景に上洛を求めました。しかし一向に応じようとしない義景の態度に信長の不満と怒りは爆発。1570年、ついに越前討伐の軍を起こしたのでした。
越前の喉元まで侵攻を許した義景でしたが、ここで浅井長政が織田側を裏切って朝倉方に味方します。首尾よく挟み撃ちにしたはずが、織田軍の善戦もあり、まんまと信長を取り逃がしてしまう結果となったのは、やはり義景の優柔不断さが成せる業だったでしょうか。
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2.朝倉義景、最後の日々
1548年、朝倉氏最後の当主として義景が跡を継ぐわけですが、その優柔不断な性格と、決断力に欠如した才能は後世の人々からの低い評価となって表れています。義景はなぜ敗れ、なぜ滅びてしまったのか?最後の日々を辿りながら解説していきましょう。
2-1.浅井長政の救援要請を受ける
浅井・朝倉による挟み撃ちの危機を脱した信長は再起を果たし、同年、浅井氏の支城横山城を包囲するべく進軍を開始しました。
浅井長政からの救援要請により、越前から援軍が進発することとなりましたが、当主の義景は出陣せずに、一族の朝倉景健を総大将とします。援軍のためにわざわざ当主自らが出陣することもないと考えたのでしょうか。
しかし浅井の手伝いいくさのため、いっこうに朝倉勢の士気は上がりません。たとえ勝ったにせよ、何も得るものが無いわけです。当主義景が出陣していれば、また状況は違ったのでしょうが。
そして朝倉軍1万は横山城の近くに布陣。浅井勢をともに織田・徳川連合軍と姉川を挟んで対峙したのでした。
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2-2.姉川で織田・徳川と激突
1570年6月28日、ついに姉川河畔で両軍は激突しました。横山城を包囲する織田軍の背後から襲い掛かった浅井勢5千は、奇襲同然に敵陣を打ち破って信長の本陣へ迫ります。
いっぽう徳川勢5千とぶつかった朝倉勢は、双方押し合いながら一進一退の戦況となりました。ところが徳川方の榊原康政隊が、薄く伸びきった朝倉勢の横腹めがけて突撃してきたため、士気の上がらない朝倉勢は浮足立ちます。
そこを見澄まして総攻撃をかけた徳川本隊によって、ついに朝倉勢は潰走状態となってしまいました。朝倉勢の敗走によって挟み撃ちの危険を感じた浅井長政は、追撃を受けながらも逆襲をかわします。
なんとか全軍崩壊の危機を脱した浅井・朝倉連合軍でしたが、横山城を失ったことにより南へのルートを遮断され、琵琶湖の北へ押し込められることとなったのです。
2-3.志賀の陣と信長包囲網の崩壊
姉川の戦いでダメージを受けた浅井・朝倉といえど、反撃するチャンスは残っていました。将軍足利義昭が築いた信長包囲網の中、多くの敵を抱える信長には、浅井・朝倉へ差し向ける兵力の余裕がなかったのです。
同年9月、義景自ら率いる朝倉勢は浅井氏と共に動き出し、湖西にある坂本領へ侵攻。織田氏の重臣森可成を敗死に追い込みます。次いで京都と目と鼻の先にある山科まで進軍したのでした。
しかし信長がまとまった兵力を率いて向かってくると、義景たちは一戦もすることなく比叡山へ登り、織田軍の追撃をかわしたのです。織田に対して決戦を挑もうとしない義景の態度に、朝倉方の諸将は気落ちしたことでしょう。
そして決着がつかぬまま時は流れ、信長包囲網の中心的存在だった武田信玄が1573年に死去するに及び、ついに包囲網は崩壊し始めるのです。
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