平安時代日本の歴史

5分でわかる平安末期に起こった内乱「平治の乱」藤原の陰に源平あり?わかりやすく解説!

時代劇や時代小で人気のテーマといえばやはり「幕末」と「戦国時代」。しかし近年、「平安~鎌倉時代」の人気も高まっていることをご存じでしょうか。朝廷内の対立や内乱、有力武士の台頭など、平安末期は日本が大きな変化を遂げた激動の時代なのです。今回の記事では、そんな時代から「平治の乱」をピックアップ。武士の時代の幕開けを予見させる、中世日本の重要なキーワードとなったこの出来事について詳しく解説いたします。

なぜ起きた?「平治の乱」を取り巻く環境と時代背景

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「平治の乱」は、「保元の乱」の3年後に都(京都)で起きた政変のこと。後白河上皇を中心とした皇位継承争いに、平清盛、源義朝(源頼朝の父)といった武士たちが台頭するきっかけにもなった重要な出来事です。学校の授業ではさらりと解説されて終わることが多い「平治の乱」ですが、掘り下げてみるとなかなか興味深い。しかし一方で、関係者の対立関係が複雑でわかりにくいという一面もあります。まずは「平治の乱」がなぜ起きたのか、原因と時代背景について見ていくことにいたしましょう。

広大な荘園は魅力的・朝廷の後継争いが止まらない!

「平治の乱(へいじのらん)」は、平治元年(1159年)12月9日に起きた政変の名称です。

この内乱の背景には、「院政」「荘園」という2つの重要なキーワードが潜んでいます。いったいどういうことなのか、ざっくりとチェックしておきましょう。

「平治の乱」より数十年前の1086年(応徳3年)、白河天皇という人が初めて「院政(いんせい)」という政治を始めます。白河天皇はわずか8歳だった堀河天皇に皇位を譲りますが、隠居して表舞台から姿を消すのではなく、上皇となり、天皇より強い権力を握って権勢をふるったのです。

では、もうひとつのキーワード「荘園」とは?簡単に言うと「農耕地」のこと。主に貴族など富裕層が所有する農地のことを「荘園」と呼びます。日本の歴史において、権力・財力の象徴となったのは「荘園(しょうえん)」でした。当時の経済の中心は農作物(お米)でしたので、広大な荘園を所有することが権力の源になっていた、と見てよさそうです。

もちろん、朝廷は荘園をたくさん所有しています。

天皇になれば広大な荘園から富を得ることができ、院政をやれば自分に有利な政治を行うことができる……。天皇の兄弟や親戚筋の中でも、天皇になるのとならないのでは雲泥の差があります。

これはもう、どんな手を使ってでも天皇にならなければ!ということで、平安時代後期、莫大な富と権力を求め、天皇後継者とその側近たちによる争いが日々繰り広げられていったのです。

院政とは何?どうしてみんな院政をやりたがるの?

平安時代当時、上皇のことを「院」と呼んでいたそうで、そこから「院政」という呼び名が誕生しました。

ちなみに「法皇」とは、上皇が出家したときの呼び方。院政というシステムの背景には、子から孫へと、確実に直系に継承させていくという思いが見え隠れしています。

現代より1000年以上も前の時代のこと。天皇家に子供が生まれたとしても、病で早世することも珍しくありませんでした。直系に後継者がいない場合、近い血筋にあたる人物が即位することも多かったようです。

そうなると、後継者候補が複数擁立されることもあります。後継者がいないのも問題ですが、後継者候補がたくさんいる場合も、何かと火種になりがちです。

最初に院政を行ったとされる白河天皇も、自分の後継を考え、自分の弟たちが天皇にならないようにするため、自分の子供である堀河天皇をさっさと天皇の座につかせたのだと考えられています。こうすれば、天皇は確実に直系によって継承されていき、弟や親戚たちの横槍の心配もありません。

そして、当然、上皇の強い権力にも大きな魅力がありました。

天皇は実質、律令(法律)に基づいて政治を行いますが、上皇ともなると律令を超えた強い権限を施行することができたのだとか。権力を持っているので、よくしてもらおうとする輩が上皇に荘園を寄進することもあり、院政はますます盛り上がっていきます。

しかし、上皇になったからといって永遠に安泰、というわけではありません。後継者争いに終わりなし。その結果、平家や源氏といった武士たちが台頭し、「平治の乱」が勃発することとなるのです。

摂関家?絶大な力を持っていた藤原家の影響とは?

「院政」と似たような政治の在り方に「摂政(せっしょう)」「関白(かんぱく)」というものがあります。

摂政とは、即位した天皇が幼少であったり女性である場合に、代わりに政治を執り行う人のこと。またはそのような政治のことを表します。

関白とは、天皇の性別年齢に関係なく、天皇を補佐して政務を行う役職のことです。

どちらも非常に重要であり、強大な権力を持つ重職。「院政」との違いは、天皇の血筋ではない者が就く、という点です。

そして、こうした摂政・関白を輩出していたのが「藤原氏」でした。あの大化の改新の際に中大兄皇子とともに日本を大きく変えた中臣鎌足を祖先に持つ一族です。藤原姓は、鎌足が亡くなる直前、中大兄皇子(天智天皇)から与えられたといわれています。

藤原氏は飛鳥時代、奈良時代と、常に政治の中心にあり、日本の歴史を大きく動かしていきました。

平安時代に入ると親戚筋も増え、娘を天皇に嫁がせ(外戚)たり、摂政・関白となって実権を握ったり、藤原一族は大いに栄えます。

しかし、平安時代後期に入ると院政が盛んになり、藤原氏の権力にも陰りが。そんな時代に差し掛かったころに起きたのが「平治の乱」だったのです。

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