平安時代日本の歴史

「源氏」と「平氏」とは?日本の歴史を動かした2つの一族をわかりやすく解説

鎌倉時代から江戸時代まで続いた武士の時代。この武士という役職は源氏と平氏という二つの一族によって誕生し、武士の時代の基礎を築き上げました。今回はそんな源氏と平氏についてどうして誕生したのか?どうして権力を握っていったのかを見てみましょう。

源氏と平氏の誕生【元々は皇族の端くれ】

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源氏と平氏は両方とも平安時代前期から中期の間に皇族から離れたことによって誕生した一族でした。要するに天皇の子孫となります。

なんで天皇の子孫が平氏と源氏になったのでしょうか?実はこれには訳があり、昔の皇族のルールとして天皇の息子で天皇になれるかもしれない人は親王として重宝されていましたが、天皇になることができない人で、さらにその人の孫にまでなると天皇から姓というものを与えられて皇族ではなくなってしまう暗黙の了解があったのです。これを。天皇の臣の籍に降下するということで臣籍降下と言います。なんだかかわいそうな話ですけどね。

桓武平氏の誕生

平氏の場合は平安京に遷都したことで有名な桓武天皇が祖先と言われています。その訳の1つとして桓武天皇がとんでもないぐらいに子沢山だったことがありました。10人とかそんなレベルじゃないですよ。なんと36人です。

こうなったら朝廷は大変ですね。1人育てるだけでもしんどいのに36人にまでなると手に負えません。さらに天皇といってもそうホイホイとなれるものではありませんのでそうなってくるとやってくるのが臣籍降下。桓武天皇の三男の葛原親王の息子である高望王と高棟王が平氏という姓を与えられて皇族の地位を失ってしまいました。この人の子孫が桓武天皇の平氏ということで桓武平氏と名乗ることになるのですが、のちに登場する平氏のほとんどがこの桓武平氏だと思ってください。

余談として平氏の『平』は平安京の平と言われています。桓武天皇が祖先ですからそれに関連付けた名前をつけたのでしょうねきっと。

清和源氏の誕生

次に源氏ですが、この源氏の場合は平氏と違い宇多源氏や嵯峨源氏など21の源氏が存在しています。本当に多いですね。源氏物語の光源氏も臣籍降下して源氏を与えられていますし、この当時臣籍降下するときだいたいが源氏という姓が与えられたのでしょうね。そんな源氏の中でも特に繁栄し、のちの源氏の代表格となるのが清和源氏です。

清和源氏は清和天皇を祖先に持つ源氏ですが、この清和天皇も桓武天皇に負けず劣らず子沢山でなんと16人の子供を残しています。

そうなってくるとお決まりの臣籍降下が行われていきますが、この時は息子や孫を合わせて全員で16人の人が源氏を与えられて皇族ではなくなり武士や貴族になっていくのですが、その中でも清和天皇の六男の息子である経基王の子孫がのちに武士として活躍していくのです。

ちなみに源氏の由来は嵯峨天皇が臣籍降下させた時に「臣籍降下しても朕(自分)と汝(臣籍降下した人)は源流が一緒だらね!」と言ったのが由来だとか。そんな漫画みたいな展開で姓を決めて欲しくないと思いますがどうでしょうか。

源氏と平氏【武士の棟梁へ】

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こうして皇族を離れていった人たちは源氏や平氏という姓を与えられましたが、皇族から離れた後どうしたのかは人によってまちまちでそのまま京都に残り公家として生きていった人もいれば、地方に行って武士として活躍していく人もいました。ここでは武士として活躍した源氏と平氏を見ていきましょう。

坂東平氏の誕生

高望王が臣籍降下して平高望となりましたが、この人は朝廷に残らず上総国(今の千葉県北部)の副官となり自らその上総に住み着きそこを本拠地としました。平高望は元々皇族でありさらには桓武天皇の子孫であるというブランドを使って上総国・下総国・常陸国に勢力を拡大。その勢力を守るために自ら武装して武士団を結成して自分はその武士団の棟梁となります。これが武家平氏の誕生です。ちなみに、平高望の所領の坂東(関東地方のこと)にちなんでこの平氏を坂東平氏と区別したりします。

平将門の乱と平忠常の乱

こうして関東地方に勢力を拡大していった平氏ですが、残念なことに平高望の息子である平国香と孫である平将門が争い始めてしまいます。

特に平将門は自分を天皇の子孫であることを理由に新皇と名乗り関東地方に独立した国を築き上げようとして朝廷に対して反乱を起こすという大事態を引き起こしてしまいました。このことを平将門の乱と呼んだり、この同時期に起きていた藤原純友の乱とまとめて承平天慶の乱と呼んだりします。この乱の結果は将門の戦死によって終わり、なんとか平氏の紛争は終わりを迎えるべきだったと思いますが、さらに国香の甥の息子である平忠常という人が乱を起こしたことによって坂東平氏は急速に衰退してしまい、代わりにこの頃誕生した清和源氏がこの関東地方を治めることになるのです。

源氏の台頭

こうして坂東平氏は衰退しましたが、その後を継いだのが清和源氏でした。

清和源氏は経基王が臣籍降下して源経基と名乗ったことで始まりましたが、この清和源氏は最初の頃は地方に行かず、京都で働いている貴族でした。しかし、源経基の息子である満仲の時代になると摂津国(今の大阪北部・兵庫県南東部)に本拠地を置いて武士団を結成しました。これを摂津源氏と言います。満仲の息子であり、大江山の鬼退治伝説でも知られている源頼光は有名ですね。

後で紹介しますが、平清盛や源頼朝の時代の方を知っていると『関東地方が源氏で関西地方が平氏の拠点』と思う人がいると思いますが、初期の頃は真逆だったことがこれでわかります。

さて話を戻しまして源氏は摂津を本拠として活動していくことになりますが、満仲の三男である頼信という人は平忠常の乱を平定したことによって関東地方に所領が与えられてそこに本拠地を置くようになりました。さらにその息子である頼家は後三年の役などを経て関東の足がかりを作り、のちの源氏の関東地方支配につながっていきます。しかし、この頼信の子孫の源氏は坂東源氏ではなく、ちなみに河内源氏と名乗っていました。のちに鎌倉幕府を開く源頼朝も河内源氏です。関東を本拠地としているのになぜか河内(大阪府東部)。謎です。

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