室町時代戦国時代日本の歴史

室町幕府最後の将軍「足利義昭」貧乏公方!?の人生をわかりやすく解説

足利義昭(あしかがよしあき)の名は、「室町幕府最後の将軍」という枕詞とセットで記憶にある方も多いかと思います。しかし、彼の多難な人生についてはあまり多くが伝わっていないのではないでしょうか。本来ならば僧として静かな一生を送るはずだった彼が、なぜ将軍の地位に就くこととなったのか、そして将軍を辞した後はどうなったのか…波乱万丈と言う形容がふさわしい、義昭の人生についてご紹介しましょう。

兄を殺され、僧から一転、将軍を目指す

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Published by Meguro Shoten (目黒書店) – The Japanese book “Kokushi Shōzō Shūsei (国史肖像集成 将軍篇)”, パブリック・ドメイン, リンクによる

足利義昭は、室町幕府第12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の息子として生まれました。幼いうちに出家して僧となりましたが、永禄8(1565)年、兄である13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が暗殺されてしまうと、還俗して将軍家の当主となる道を選択します。僧となるべき一生が、突然にして変わった瞬間でした。

幼くして出家し、僧としての一生を歩むはずだった

足利義昭は、天文6(1537)年に室町幕府第12代将軍・足利義晴の子として生まれました。母を同じくする兄が、後に13代将軍となる足利義輝です。

天文11(1542)年に、義昭は6歳にして出家し、興福寺に入って「覚慶(かくけい)」と名乗るようになりました。

なぜこんなに早く出家したのかというと、それは足利将軍家の跡継ぎ選びのやり方が理由です。しきたりとして、嫡男以外の男子はみな出家して仏門に入ることとなっていたのでした。こうすることで、後継者争いを未然に防ぐようにしていたのです。また、将軍家の血筋を入れることで、寺社との関係を強める狙いもありました。

そんな将軍家の思惑がありましたが、幼い義昭は、このまま僧として一生を終える予定だったのです。

兄である将軍・足利義輝が暗殺され、自身は幽閉されてしまう

しかし、永禄8(1565)年、義昭の運命を一変させる事件が発生しました。

兄である将軍・義輝が、家臣の松永久通(まつながひさみち)と三好三人衆に暗殺されてしまったのです。しかもこの時、義昭と義輝の実母・慶寿院(けいじゅいん)は火に飛び込んで自害し、その後、義昭と同じく僧になっていた弟・周暠(しゅうこう)までも暗殺されてしまったのでした。将軍暗殺というこの大事件は、「永禄の変」と呼ばれています。

僧だった弟が殺害されたとなれば、敵の手が義昭に及ばないと言う保証はありませんでした。その通り、義昭は捕らえられて幽閉されてしまったのです。彼の命はもはや風前の灯でした。

還俗し、将軍の座を目指すことになる

しかしそこで助けの手が義昭に差し伸べられます。義輝の側近たちが、彼を救出してくれたのでした。

そして義昭は京都から伊賀(三重県)、近江(滋賀県)に逃れ、自分が足利将軍家の当主となることを宣言したのです。

還俗を果たした彼は、これ以後積極的に将軍となるべく活動を開始しました。兄・義輝の死後、将軍の地位は空位になっており、一刻も早く就任したいと言うのが義昭の考えでした。しかし、義輝を殺害した三好三人衆らは、義昭の従兄弟・足利義栄(あしかがよしひで)を担ぎ、こちらを将軍に就けようと画策していたのです。

義輝の側近に助けられたとはいえ、義昭の立場は決して盤石ではなく、前途多難でした。それでも彼は将軍家の復活を志し、動き出すことを決断したのです。

ライバルに先を越されながらもついに将軍の座へ

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還俗した義昭は、将軍の地位に就くためあちこちの武将に協力を要請します。しかし、ライバル・足利義栄を擁する三好三人衆の策略などにより、義栄に先を越されてしまいました。身を寄せた朝倉義景(あさくらよしかげ)の動きが鈍い中、義昭が次に頼ったのは、戦国の風雲児・織田信長。そしてついに、義昭は信長の協力を得て上洛を果たし、将軍の座に就くこととなるのでした。

多くの武将に協力を呼びかける

元僧侶とはいえ、足利将軍家に生まれた義昭の動きは積極的でした。室町幕府での有力守護である畠山氏や、近江の六角義賢(ろっかくよしかた)、越後(新潟県)の上杉輝虎(うえすぎてるとら/後の上杉謙信)などに協力を要請し、支持を取り付けていきます。そして織田信長とも連携し、上洛はもはや目の前に迫っていました。

しかし、そう簡単にはいかないのが戦国時代。味方だったはずの六角義賢が、対抗勢力である三好三人衆などの働きかけによって義昭から離反してしまうなどしたため、義昭はいったんこの時点での上洛を諦め、妹婿の武田義統(たけだよしむね)を頼り、若狭(わかさ/福井県南部)へ移りました。しかし武田氏の中でも内紛があり状態が安定していなかったため、今度は越前(福井県嶺北地方)の朝倉義景を頼ったのです。

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