安土桃山時代日本の歴史

豊臣政権末期を支えた「五大老」とは?「五奉行」とどうちがう?

歳をとってから生まれた可愛い我が子の将来を心配して「私に何かあったら、この子のことを頼みます。守ってやってください。力になってやってください」と親戚や友人、近所の人に頼んでまわる一人の男性……もしかしたら、ごく当たり前のことなのかもしれませんが、これが戦国時代を凌駕した時の権力者であったなら話は変わります。豊臣秀吉が幼い我が子を案じて政務にあたらせた5人の有力大名の総称「五大老」。どのようなものだったのでしょうか。同様に組織された「五奉行」との違いなどもあわせて解説します。

秀頼のことを頼む……豊臣秀吉と「五大老」

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「五大老(ごたいろう)」とは、戦国時代末期、豊臣秀吉亡き後に豊臣政権を支え政務にあたった5人の大名のこと。徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家がそれにあたります。秀吉が自らの死を予感した頃、息子秀頼はまだ幼く、それを憂いで有名大名たちに働きかけをしたもの。しかし五大老と呼ばれた大名たちもそれぞれ権力を持っており、秀吉との関係も気になるところ。五大老とはどのように始まったのか、当時の時代背景も含めて詳しく見ていきましょう。

五大老とは?どのような組織なの?

「五大老」とは、16世紀末、豊臣政権下で政務を行っていた5人(当時は6人いたもと言われている)の大名のことです。

「五大老」や「五奉行」という呼び方は後世のものであり、豊臣秀吉がこのような名称を付けたわけではありません。

つまり、当時は特に「五大老」という組織や役職があったわけではありませんでした。

「五大老」と呼ばれていた人物は、当時、日本の各地域に領地を持ち、知力も武力も持ち合わせていた有力大名「徳川家康」「前田利家」「上杉景勝」「毛利輝元」「宇喜多秀家」と、「小早川隆景」の6人。

この6人は常々秀吉から「豊臣の世を守ってくれ」「秀頼のことを頼む」というようなことを言われていたと伝わっています。

このうち、小早川隆景は秀吉より先に亡くなっており、秀吉没後は残りの5人が豊臣政権を支える形となっていました。

この状況を後に「五大老」と呼ぶようになったのです。

五大老が設けられた目的・背景とは?

16世紀末、豊臣秀吉は戦国時代の乱世を制し、天下人となりました。

一方で長らく子宝には恵まれず、嫡男・秀頼が誕生したのは1593年。このとき既に秀吉は57歳になっていました。

秀吉は豊臣の世を確実なものにするため、後継ぎ問題を常に気にかけていたといわれています。

もともとは、いとこの秀次に継がせようとしていたようですが、秀頼が生まれると状況は一転。後継者と考えていた秀次との確執が起き、ついに秀次を切腹に追い込んでしまいます。

こうした混乱を経験した秀吉。我が子秀頼には、このような苦労はさせたくない。そんな思いもあったのかもしれません。秀吉は後継者を秀頼一本に絞ります。

しかし何せ秀頼はまだ子供。成人するまでまだまだ何年もかかります。根回しが必要です。

加えて、豊臣秀吉が天下人になるまでの経緯も関わってきます。

秀吉は決して、圧倒的な力で天下人になったわけではありません。つい数年前まで、織田信長亡き後の乱世を、他の戦国武将たちと争い戦に明け暮れる日々を送っていました。

いくら天下統一を成し遂げたといっても、いつ何時、他の大名たちが決起して自分の足元を揺るがすか知れない。そんな思いもあったはずです。

秀吉が特に警戒していたのが、徳川家康でした。

そこで考えたのが、特に力の強い大名を選出し、全員で話し合って物事を決める、という会議体制を整えること。これが「五大老」の始まりです。

これにより、有力大名たちに秀頼のことを守らせるとともに、お互いを監視させ、さらに家康が勝手なことをしないよう、監視することができます。

五大老と五奉行はどう違う?

このころ同じく「五奉行」と呼ばれる者たちも現れます。

石田三成、増田長盛、名束正家、浅野長政、前田玄以の5人です。

この呼び方も後の世につけられたものですが、やはり秀吉が豊臣の世を確固たるものにするために組織したものでした。

「五大老」に名を連ねているのは、世が世なら豊臣家との敵対も考えられる有力大名たち。一方の「五奉行」は基本的に豊臣の家臣たちです。

「五大老」に比べると、大名としての格もそう大きくはありません。

あくまでも豊臣を内部から支える、という立場の人物たち。これが「五大老」の実態です。

秀吉はこの「五大老・五奉行」制度によって豊臣の世が続くことを願いつつ、1598年にこの世を去ります。

五大老はいつ頃まで続いたの?

五大老の力関係はどのようなものだったのでしょう。

徳川家康が頭一つ出ており、それに対抗できる力を持っていたのが前田利家でした。

他の3大名は、徳川・前田ほどの力は持っていなかったものとみられています。

豊臣の行く末は、家康の動向一つにかかっているといってもよい状況。そんな中、頼みの綱であった前田利家が、秀吉の後を追うように1599年に亡くなってしまいます。

すぐに息子の前田利長が利家の後を継ぎますが、家康に対しては、利家ほどの影響力はありません。

家康は大坂城に入り、影響力を強めていきます。ここが家康の抜け目ないところで、すぐ暴挙に出るのではなく、秀頼を立てつつ、あちこちに根回しをしながらじわじわ、じわじわ。巧みに、他の大名たちを抱き込んでいきます。

もう誰も、家康を止めることはできません。下手に豊臣に味方し続けていたら自分たちの領地も危ないかも……そんな空気が日本中に漂い始め、1600年、ついに関ヶ原の戦いが始まってしまうのです。

長引くかと思われた関ヶ原の戦いは、わずか一日で終了。徳川家康側の大勝利となります。

前田家は徳川家に服従。上杉、毛利、宇喜多は関ヶ原で敗れ、有力大名という立ち位置から脱落します。

関ヶ原の戦いより前から、既に「家康一強」という構図になっていましたので、前田利家が亡くなったときにもう五大老体制は崩壊していたと見てもよいかもしれません。

五大老メンバーのプロフィール紹介!

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豊臣秀吉が豊臣の世が続くよう願って試みたと思われる「五大老・五奉行体制」。しかし時代の流れには逆らえず、残念ながら、わずか数年続いたのみとなりました。そんな五大老の一角を担っていた各大名とは?もう改めて論じるまでもないほどの有名武将ばかりですが、豊臣一族との関係性を中心に見ていきたいと思います。各タイトルのカッコの中の数字は、当時のおおよその石高です。

徳川家康(256万石)侮れないタヌキおやじ

徳川家康は1543年生まれ。記録では、豊臣秀吉は1537年生まれとなっていますので、家康は秀吉より少し年下、と言ったところでしょうか。

三河(現在の愛知県のあたり)の有力豪族・松平家の血筋で、若い頃から織田氏や今川氏の下で戦や政治の駆け引きに翻弄される日々を送ってきた戦国武将です。

秀吉が北条氏を討ち取って天下統一を成し遂げた後、家康は今まで持っていた三河や駿河などの領地を取られ、代わりに武蔵や相模、上総など関東一帯を治めるよう言い渡されます。

領地は広くなったような感じがしますが……。当時の関東地方は何にもない野原でド田舎。家康を警戒した秀吉が、都や大坂城から遠いところに追いやった、という見方もできそうです。

でも家康は、何もない沼地や草原だった関東に、一大都市を築き始めます。江戸の町づくりの始まりです。

やがて秀吉が亡くなり、前田利家もこの世を去ると、力の均衡に変化が。家康個人としては、豊臣やその他の五大老たちと対立するつもりはなかったようですが、その態度が逆に、したたかさを浮き彫りにしてしまったとも見られています。

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