室町時代日本の歴史鎌倉時代

【倭寇とは?】古代と中世の鎌倉時代から室町時代まで続いた2つの倭寇について解説

東アジアの沿岸を荒らし回った海賊として知られている倭寇は、以外とその実態については知られていません。単に日本人による海賊と思っている人も多いのです。しかし、倭寇には、中世において中国大陸で怖れられた倭寇とは別に、朝鮮半島沿岸を荒らしまわる倭寇があったことが古代朝鮮の資料には記録されています。 これらの倭寇について解説します。

中世と古代の2つの倭寇があった?

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鎌倉時代から室町時代にかけて、中世の日本には海人族、水軍と呼ばれる海で生計をたてる人々がおり、普段は漁労交易などをおこなっていました。彼らは、商売がうまくいかなかった時には海賊として活動する時もあったのです。この人々のことを私たちは倭寇と言っています。

また、それらの倭寇とは別に、古代の朝鮮半島南部には倭寇と呼ばれる行為があったことが古代の歴史書や碑文からわかっているのです。弥生時代には朝鮮半島南部から北九州にかけて倭族と呼ばれる人々のクニがあり、その中の朝鮮半島には海人族のクニもありました。その中で、朝鮮半島南部に住む倭族のクニは朝鮮半島沿岸地域を侵略することもあったようです。

中世の倭寇と古代の倭寇はまったく違うもの

朝鮮半島の古代の歴史書に出てくる倭寇とはこの古代朝鮮半島の倭族の人々のことを指しており、後の鎌倉時代から室町時代初期の倭寇とはまったく違うものでした。このように、倭寇は、もともと日本が古代には倭国と呼ばれていたことによっていますが、中世の倭寇は古代の倭寇とは別のものだったと言えます。

古代の倭寇は大和朝廷とは関係がなかった

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古代に朝鮮半島においておこなわれた倭寇は、中世の鎌倉時代から室町時代初期までの倭寇とは基本的に違っています。私たちが倭寇として頭に浮かぶのは、中世の水軍による倭寇ですが、古代にはそれらとは別の倭寇があったのです。

すなわち、日本の古墳時代にあたる時代には、朝鮮半島の諸国(古代には朝鮮半島には統一国家はなかった)の沿岸地域を襲っていた倭寇が記録されています。この古代の倭寇についてまず見ていきましょう。

中国の長江下流域にいた倭族が朝鮮半島南部から北九州に難民化して移動

日本が古代において倭国と呼ばれていた背景には、北九州に倭族と呼ばれる民族がいたことによります。すなわち、弥生時代以前から日本列島にいた縄文人とは違って、大陸から新たに水田稲作、水稲をたずさえてこの列島にやってきた人たちがいたのです。この倭族はもともと日本列島にいた縄文人と交わり、急速にこの日本列島に水田による稲作文化を普及させていきました。それが、弥生時代だったのです。

もともと倭族は、長江下流域にいたと言われています。中国大陸が寒冷化に見舞われた紀元前1,000年頃に、中原と呼ばれた黄河流域から多くの中華民族が南下しました。その人々の侵略によって、長江流域の水田稲作農耕民であった倭族は、長江上流や台湾、そして遼東半島からさらに朝鮮半島南部、北九州に難民として民族移動をしたのです。

朝鮮半島の倭寇とは何だったのか?

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当時の朝鮮半島には、中国東北部の北方民族の高句麗やもともと遼東半島付近にいた朝鮮族などの新羅、百済がそれぞれ国家をたててしのぎを削っていました。そこに倭族が南部に現れ、伽耶などのクニをたてたのです。そして、倭族は伽耶のクニとして百済、新羅、高句麗などの沿岸地域に対して攻撃を加えていたことが伝えられており、これを倭寇と言っていました。

したがって、この当時に日本列島にいた大和朝廷や北九州にいた倭族の攻撃ではなかったと考えられているのです。

朝鮮半島南部の倭族と北九州の倭族

もともと朝鮮半島南部の倭族と北九州の倭族は同一民族であったと考えられていますが、それぞれの地域で独立して行動しており、別のクニを打ち立てていたのです。北九州の倭族のクニは、当時日本列島にいた縄文人に対して弥生文化を広めることに熱心でした。そのため、朝鮮半島南部の倭族の行動とは別の動きをしており、倭寇との関わりは認められていません。

魏志倭人伝にも倭人は漁労民の記述があるが

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中国の正史である三国志魏志倭人伝の中で、邪馬台国の住民についての記述には、鯨面の海人(漁労民)がいたことが記載されていますが、倭人には海人族もいたことは事実でしょう。しかし、あくまでも邪馬台国のクニの1つの特徴として記述されており、それが大きな力を持っていたとは考えにくいのです。

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