幕末日本の歴史江戸時代

病弱なのに問題が山積み…13代将軍「徳川家定」の生涯と激動の時代を元予備校講師がわかりやすく解説

日米和親条約の締結

ペリー退去後、老中の阿部正弘は人材登用や品川沖の台場建設、洋学研究機関である蕃書調所の設置や兵学を教授する講武所、長崎に海軍伝習所を設立するなど国防体制の充実を図りました。同時に、阿部は諸大名に開国についての意見を求めます。

1854年1月、ペリーは予想よりも早く浦賀に再来航。前年に手渡した国書への返信を迫りました。この時は艦隊を4隻から9隻に増強。前にもまして、幕府に軍事的な圧力をかけます。

幕府はこれ以上、ペリーとの交渉を引き延ばすことは不可能だと考え、日米和親条約の締結に踏み切りました。日米和親条約では、下田・箱館の2港の開港や燃料の補給、難破船の乗組員救助、領事の下田駐在といった内容について定められます。

大河ドラマの主人公ともなった篤姫の輿入れ

篤姫が輿入れする前、家定には二人の正室がいました。一人は鷹司任子。1831年に江戸城に輿入れしていましたが、流行病である疱瘡のため1848年に死去します。

かわって輿入れしたのが一条秀子でした。一条秀子は1849年に江戸城に輿入れしましたが、翌年に亡くなってしまいます。

篤姫が江戸城に輿入れしたのは1856年。島津家の一門である今和泉島津家に生まれた篤姫は薩摩藩主島津斉彬の養女となり、近衛家の養女とされた後、江戸城に入りました。

篤姫が将軍夫人に選ばれた理由は、利発さと健康さにあったようです。公家出身の二人の正室が若くして病死したことなどから、家定の母は11代将軍家斉の夫人となった茂姫のようなしっかりとした夫人が良いと考え、薩摩藩から正室が選ばれました。

将軍継嗣問題と家定の死

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将軍家定は就任当初から健康面が不安視されていました。篤姫輿入れ後も、家定には跡を継ぐべき男子がおらず、家定在世中から将軍の跡継ぎをめぐる争いが起きます。この争いを将軍継嗣問題といいました。病状が悪化した家定は死の間際に井伊直弼を大老職に任命。自らの後継者を紀州藩主徳川慶福と定めます。家定の死後、天璋院と名乗った篤姫は幕末動乱の中、徳川家を守るため奔走しました。

将軍継嗣問題とは

家定は将軍就任以前から病気がちで、世継ぎの誕生は難しいと考えられました。そのため、家定が将軍になる前後から、家定の跡継ぎについて議論されます。

越前藩主の松平春嶽や薩摩藩主島津斉彬らは、この難局に対応するには有能な人物が将軍になるべきだとして一橋慶喜を次期将軍に推しました。

それに対し、譜代大名や大奥は慶喜よりも将軍家の血筋に近い紀伊藩主徳川慶福を推薦します。1858年、彦根藩主で譜代大名でも筆頭各の井伊直弼大老に就任。大老は将軍に次ぐ地位で、老中に比べると大きな権威を持った役職でした。

井伊は死の床にある家定から将軍の跡継ぎとして意中の人物を聞き出します。1858年6月、将軍家定は徳川慶福を14代将軍とすると井伊直弼に告げました。徳川慶福は名を家茂と改め14代将軍となります。将軍継嗣問題は紀伊派の勝利に終わりました。

家定の死と安政の大獄

1858年7月、かねてから病の床にあった徳川家定が亡くなりました。享年35。将軍就任からわずか4年後のことでした。

将軍継嗣問題に勝利し、幕府の主導権を握った大老の井伊直弼は日米修好通商条約に調印。朝廷の許可なく、幕府の独断で条約を結んだことに尊皇攘夷派は反発します。

これに対し、井伊直弼は幕府の方針に反対した公家や大名、幕臣、藩士などを次々と弾圧。松平春嶽や徳川斉昭を隠居、蟄居。公家達は出家。吉田松陰や橋本左内などは処刑されてしまいました。井伊直弼による反対派の弾圧を安政の大獄といいます。

これにより、幕府に逆らうものはいなくなったかに見えました。しかし、井伊直弼は桜田門外の変で水戸藩の浪士たちに暗殺されてしまいます。幕末政局の主導権は次第に幕府から朝廷、雄藩に移りました。

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