教養歴史

【鎌倉幕府】名君と呼ばれた「北条時頼」どんな人だった?わかりやすく解説

「北条時頼」とすぐ聞いて「誰それ?」となる人もいるかもしれません。しかし大河ドラマ『北条時宗』を観た人は「ああ!渡辺謙が金色になった人!」となるかもしれませんね。日蓮に詳しい人ならば「立正安国論を出した人だ!」となるかもしれません。北条執権の中でも「名君」と呼ばれる北条時頼。本当はどんな人だったのか知りたいと思いませんか?

当時の鎌倉幕府ってどうなっていたの?

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教科書で見る限り鎌倉幕府というと「源頼朝が幕府を作る」「源実朝が鶴岡八幡宮で殺される」「北条政子が叱咤して朝廷と戦う」「蒙古襲来」「鎌倉幕府が倒される」とザックリ言うとこんな感じですよね。しかし鎌倉時代って成立が諸説ありますが【1192-1333年】または【1185-1333年】と100年以上あるんですよ。その隙間を補完してみましょう。

源実朝のあとに将軍はいたの?

歴史の教科書では「源実朝」以後の「征夷大将軍」は微塵もみられないので、将軍なんかいなくて北条氏が政治をしていたんじゃない?と思いますよね。実際に政治の中心になっていたのは北条氏なのですが、いくら平氏の血筋とはいえ将軍にはなれなかったのですね。

そこで、源実朝の後はどうなったのかというと、なんと「源頼朝」の同母妹である「坊門姫」が公家の「一条家」に嫁いでいたので、源氏の血筋は残っているということで、その坊門姫のひ孫である「藤原頼経」が四代将軍となったのですね。その後「藤原頼嗣」に引き継がれていくのですが、ふたりとも京に返されて、今度は血筋でもない皇族の「宗尊親王」が将軍になりました。

それからも将軍は北条氏によって「惟康親王」「久明親王」「守邦親王」と変えられていって9代まで続きます。ころころと変えられているんじゃないか?と思われるかもしれませんが、藤原頼嗣の7年3ヶ月をのぞけば、ほかの将軍たちは14~24年と就任期間はけっこう長いですね。

独裁制からシステムがかわる

源頼朝が亡くなった時に、将軍独裁から残った御家人たちで(2代将軍の源頼家が若くてムチャクチャしだしたので)合議制で政治を行おうと、正治元年(1199年)「宿老13人の合議制」を設立。2004年の大河ドラマで、この13人の話が三谷幸喜によって書かれるそうですよ。名前だけでも見てください。

「大江広元」「三善康信」「中原親能」「二階堂行政」「梶原景時」「足立遠元」「安達盛長」「八田知家」「比企能員」「北条時政」「北条義時」「三浦義澄」「和田義盛」

序列はこんな感じですが、やはり源頼朝の奥さんの北条政子の父親である「北条時政」弟の「北条義時」がその中心となっていきますね。その中で反感をもった御家人を次々と滅ぼしてしまうのですよ。北条氏に取って代わろうとした比企能員がおこした「比企の乱」にかかわった源頼家は、幽閉されて病死。三代将軍に弟の源実朝が就任します。しかし若いことから「執権」という、朝廷の摂政関白みたいに補佐するものを作り、北条時政が初代執権となりました。

ところがこの北条時政は、娘婿を引き立てようとして重鎮の「安達盛長」を滅ぼしてしまったのですから、北条政子と北条義時が怒って伊豆に追放してしまいます。そこで2代目執権は北条義時となったのですね。

貞応3年(1224)6月、北条義時が亡くなり3代執権は北条義時の息子の「北条泰時」になります。その頃には創生期のメンバーはいなくなっていて、世代交代になることから混乱する可能性が出てきますね。そこで顔の利く叔父である「北条時房(北条氏・大仏流祖)」を補佐官のような地位である「連署」として迎えますよ。ここで「執権」「連署」という北条執権の基盤ができたのですね。

北条泰時が鎌倉幕府の基盤を作る

北条泰時は長男でしたが元が側室の子だったことから、正室の弟との嫡男争いの後に執権になったために、北条氏の一族と嫡流家を区別させようとします。これが「得宗家」という位置のはじまりなのですね。

北条泰時は鎌倉の街を京の都を見習って、都市計画や戸主制度を導入、教科書で見たことがあるでしょう「御成敗式目」という法律を作ります。これは「武家法」とも呼ばれて、訴訟問題などに対する物だったので、室町幕府もこれを継承したのですよ。他にも鎌倉の海に港を作り、宋の船が停泊できるようにもしてますね。

北条時頼が執権となるまでの道

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北条泰時は家族運が悪かったのか、朝廷との戦だった「承久の変」以降に京を見張るために作られた「六波羅探題」の長官をしていた長男の「北条時氏」が病死。次男は16歳で家臣に殺され、三浦家に嫁いだ娘も出産で母子ともに亡くなってしまいました。そこで北条時氏の長男である「北条経時」が19歳で4代執権になるのですよ。連署は置かずに北条泰時の弟の「北条重時」が支える形になりました。

生い立ちは次男坊?

安貞元年(1227)、北条時頼は父の北条時氏が六波羅探題にいた時に京で生まれました。母親は「松下禅尼」。3歳の時に父が鎌倉へ帰ることとなり一家で帰ってくるのですが、その2ヶ月後に亡くなってしまったのですね。そこで祖父の北条泰時に育てられることとなったのですよ。嘉禎3年(1237)11歳で元服。将軍・藤原頼経の「頼」の1字をもらって「北条五郎時頼」となりました。その頃から武芸に秀でて、その年に「鶴岡八幡宮」で流鏑馬を披露しています。さぞかし自慢の孫だったのでしょうね。

北条泰時が亡くなって、兄の北条経時が4代執権となりましたが体が弱く病気がちで、執権が行う執務や表だっての行事などの取り仕切りは北条時頼が行うことになりました。そこで「神秘の御沙汰」と呼ばれる秘密会議が重臣たちで行われて、北条時頼が執権になることになったのですよ。本来の嫡流とはずれてしまうのですが、北条経時の子供2人は幼かったので北条時頼になったのですね。

5代執権・北条時頼誕生

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スムーズに執権交替のようにみえますが、2代続けて若い執権ということで、得宗家という制度に不満をもつ北条氏・古参の評定衆たちが、実権のない将軍に近づいていきました。北条時頼は執権になったとたんに、そういう反勢力との戦いが待っていたのです。

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紫蘭