幕末日本の歴史江戸時代

病弱なのに問題が山積み…13代将軍「徳川家定」の生涯と激動の時代を元予備校講師がわかりやすく解説

残された篤姫のその後

家定の死後、篤姫は出家し天璋院と名乗ります。天璋院は薩摩に戻らず、江戸城にとどまり大奥に住みました。1861年、14代将軍家茂の夫人として孝明天皇の妹である和宮が降嫁下してきます。

武家の出である天璋院と皇室出身の和宮はそりが合わないことが多かったようですが、次第に仲が改善されました。

1866年、家茂が死去すると和宮も出家。静寛院宮と名乗ります。天璋院と静寛院宮は幕末の動乱で徳川家を存続させようと積極的に行動しました。

天璋院は薩摩軍の司令官で、新政府の東海道軍の参謀だった西郷隆盛に手紙を送ります。静寛院宮も関係各所に徳川慶喜の助命嘆願をする手紙を送りました。その甲斐もあり、徳川家は現在の静岡県に当たる地域を安堵。家名を残すことが出来ました。

徳川家定の評価について

image by PIXTA / 54489800

家定は健康状態が悪かったこともあり、松平春嶽などには「凡庸の中でも最も下等」などと酷評されました。しかし、ハリスを引見した時などは君主としての威厳も見せています。病が彼をむしばんでいなければ、積極的に幕末の政局に関わったかもしれません。また、平時であれば、そこまで酷評されずに済んだかもしれませんね。

1 2 3 4
Share: