激動の時代だった徳川家定の治世
1824年、徳川家定は12代将軍徳川家慶の4男として江戸城で生まれます。家慶は27人の子供を設けましたが、成人まで生き延びたのは4男の家定ただ一人でした。1853年6月、ペリー艦隊が浦賀に来航します。その対応に追われる中、12代将軍家慶が死去。家定が13代将軍となります。1856年、薩摩藩島津氏の一門に生まれた篤姫が家定の夫人として江戸城に輿入れしました。
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ペリー来航
1853(嘉永6)年4月、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが黒船とよばれる蒸気軍艦などを率いて浦賀に来航します。アメリカが日本を開国させたかった理由は、中国との貿易の中継港にするためと、太平洋で操業する捕鯨船の補給基地にするためでした。
ペリーはアメリカ大統領の国書を日本側に渡し、正式に開国を要求します。幕府からの回答待ちの間、ペリーは浦賀周辺の測量調査を実施。幕府プレッシャーをかけます。
この時、最高責任者である将軍家慶は病の床にあり、判断できる状態ではありません。幕府は老中阿部正弘の判断で国書の受け取りを受諾します。
幕府はペリーに対し、翌年の回答を約束したため、ペリーは日本を去りました。この時の様子を詠んだ川柳が「太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」ですね。
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家定の将軍就任
家慶が重病の床にあった時、家慶の後継者は4男の家定しかいませんでした。家慶には27人の子がいましたが、成人できたのが家定のみだったからです。しかし、家定も健康というわけではなく、幼少のころから病弱でした。そのためか、人前に出ること極端に嫌ったといいます。
家定の様子を見た父の家慶は、将軍の跡継ぎとしての器量を心配。一橋家を継いでいた水戸徳川家出身の一橋慶喜を後継者にしようと考えたほどでした。
とはいえ、直系の男子がいる状態で、分家筋の慶喜を将軍にするのはよくないと考えた老中阿部正弘らの反対により家定の廃嫡は免れます。
1853年6月、徳川家慶が死去したことを受け、家定が家督を相続。正式に13代将軍となりました。
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