室町時代戦国時代日本の歴史

豊臣家滅亡へのカウントダウン「大坂冬の陣」の背景と経緯をわかりやすく解説

大坂の陣は、大まかに言うと冬の陣夏の陣の2回に分けられます。豊臣秀吉亡き後、跡を継いだ息子の秀頼は、江戸幕府を開いた徳川家康の力に抗しきれず、大坂城もろとも滅ぶこととなりました。そこに至るまでの時代背景や経緯はどのようなものだったのでしょうか。なぜ、豊臣家は滅びの道を歩んだのでしょうか…大坂冬の陣に焦点を当て、ご紹介したいと思います。

大坂冬の陣が始まるに至ったいきさつ

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大坂の陣の中でも、前半に当たる大坂冬の陣に至るまでには、豊臣家の弱体化と徳川家康の密かな野望が大きな要因となりました。関ヶ原の戦いで勝利した家康は実権を握って江戸幕府を開き、自身が最高権力者となることを暗に示したのです。そのために、家康は若き秀頼と豊臣家を徹底的に潰すことを決断しました。豊臣家は家康の老獪な策に翻弄され、開戦へと歩んでいくこととなるのです。

権力の座を狙う徳川家康

大坂の陣は、慶長19(1614)年11月からの合戦が「大坂冬の陣」、和睦期間を挟み、慶長20(1615)年5月からの合戦が「大坂夏の陣」と呼ばれています。豊臣家と徳川家の全面戦争とも言える戦でした。

天下人として絶大な権力を持った豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康は力を強めていきます。その様子を危惧した石田三成らが関ヶ原の戦いを起こしますが、家康は豊臣家を守るためとして三成ら西軍を討ち滅ぼし、ついに江戸幕府を開いて初代将軍の座に就きました。

関ヶ原の戦いの後、豊臣家は領地を200万石から65万石へと大幅に減らされ、一大名クラスに弱体化してしまいました。

秀頼はまだ幼く、家康はここから、豊臣家から徳川家に権力を移行させる作戦を徐々に実行していくこととなります。

家康、豊臣秀頼の排除を決意する

当時、関ヶ原の戦いは西軍と東軍両方が「秀頼のために互いを排除する」という名目だったため、秀頼は何も関知してはいませんでした。そのため、一般的に、幼い秀頼が成長すれば秀吉の跡を継いで関白となり、権力者となると思われていたのです。

しかし、家康は自分の息子・秀忠を2代将軍とし、秀頼への権力移行がなくなることを暗に示しました。そして、秀頼に対し臣下の礼を取るように要求したのです。

これは秀頼の母・淀殿(よどどの)の反対に遭い実現することはありませんでしたが、家康は、だんだんと秀頼の排除を心中に計画していきました。慶長16(1611)年に二条城で成長した秀頼と対面を果たした家康は、表面上は穏便に会見を済ませたものの、一説には秀頼の立派な姿に危機感を抱き、改めて豊臣家を潰す決意を固めることになったとも言われています。

方広寺鐘銘事件で亀裂が表面化

豊臣家は秀吉の死後、寺社の再建を進めていました。その中のひとつに方広寺(ほうこうじ)があり、大仏殿や梵鐘(ぼんしょう)がほぼ完成していました。しかし、式典の開催直前になり、家康が難癖をつけてきたのです。

家康の言い分は、梵鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という文字が、家康の名前を分断しているというものでした。確かにそのチェックを怠った豊臣側と方広寺側にも不備がありましたが、家康の名前を分断するなどという意図はなかったはず。ただ、こうして開眼供養の式典は延期となり、豊臣家と徳川家にはついに目に見える亀裂が生じてしまったのでした。

加えて、親・豊臣家の筆頭格だった加藤清正(かとうきよまさ)や浅野長政(あさのながまさ)、前田利長(まえだとしなが)などが相次いで世を去り、秀頼をバックアップする勢力は確実に少なくなっていったのです。

豊臣・徳川家の関係悪化、そして開戦

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方広寺鐘銘事件をきっかけに、家康と豊臣家の関係は悪化します。そして双方が戦の準備を始め、大坂城には多くの浪人たちが集結し始めました。その中には真田信繁(さなだのぶしげ)など勇将が含まれていましたが、豊臣方は浪人衆と秀頼・淀殿側近との間に距離があり、まとまりを欠きます。一方、家康は20万もの軍勢を率いて、大坂城を包囲したのでした。

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