徳川家との亀裂から全面対決へ
豊臣家を警戒し続ける徳川家康と、秀頼・淀殿らの豊臣家は、結局、決定的な対立に至り、大坂冬の陣へと突入します。秀頼は浪人たちを招集して対抗しましたが、母・淀殿の和睦希望に逆らうことはできませんでした。家が滅ぶかどうかの瀬戸際に至っても、秀頼が淀殿の影響力から脱せなかった顛末を見ていきましょう。
方広寺鐘銘事件で家康との決定的な亀裂が生まれる
表向きは秀頼と家康の関係は平穏を保っていました。秀吉の没後、秀頼と淀殿は寺社の修復などを数多く行いましたが、中でも家康に勧められたのが、方広寺(ほうこうじ)の大仏殿の再建だったのです。しかし、完成間近となった際、鐘に彫られた文章が家康を呪っているとして難癖をつけられてしまいます。「国家安康 君臣豊楽」という部分が、家康の名を分断し、豊臣家賛美だと言われたのです。もちろんそんなつもりは秀頼にも淀殿にもありませんでしたが、これが、豊臣家と徳川家の対立の大きなきっかけとなってしまいました。
すでに加藤清正など、秀頼を援護してくれる武将たちは亡くなっており、世の中は家康の江戸幕府を頂点とする流れに傾いていました。秀頼は釈明の使者を家康に派遣しますが、「秀頼を江戸に参勤させる」、「淀殿を人質として江戸に滞在させる」、「秀頼が大坂城を退去する」という条件をつけられ、当然これを飲むことができない豊臣陣営は、ついに家康との対決を決断することになったのです。
家康との全面対決!大坂冬の陣に臨む
秀頼は、豊臣家に恩義のあった武将や、関ヶ原の戦いで敗れ、領地を奪われて浪人となっていた者たちに書状を出し、大坂城に結集するよう呼びかけました。その際、勝利のあかつきには領地を存分に与えるとしたのです。また、兵糧を買い集め、明らかに戦に備える態勢を整え始めました。
これに対し、家康もまた味方を集め、大坂城攻撃に踏み切ります。慶長19(1614)年、大坂冬の陣の勃発でした。
しかし、浪人など寄せ集めの軍勢だった豊臣方は、彼らを見下す淀殿らの存在もあり、まとまりを欠きました。真田丸の戦いで名を挙げた真田信繁(さなだのぶしげ)をはじめとした「大坂城五人衆」は奮闘しますが、勝てるムードはありませんでした。
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母・淀殿に逆らえず、和議成立となる
そんな中、徳川側の放った砲弾が淀殿のすぐ近くに命中するという事態が発生します。これでおびえ切った淀殿は、それまでの徹底抗戦の態度を180度転換し、和議を主張し始めるのです。
秀頼は当初、和議に反対だったとも言われています。しかし、彼は母に逆らうということを知らない青年でした。そのまま和議は成立しますが、家康の老獪な作戦により、大坂城は堀をすべて埋められてしまい、裸同然となってしまうのです。
最後までリーダーシップを発揮することなく、大坂城と共に滅びる
豊臣陣営と徳川陣営の対立は再燃し、大坂夏の陣が起きることになります。善戦した大坂方も徐々に追い込まれ、ついに秀頼に出馬の要請がなされました。しかし、前線に向かおうとした秀頼の足を、またしても母の言葉が止めることになってしまいます。秀頼の人生は、父と母の2人の影響と足かせがあまりにも重く、それが彼を滅ぼすことになりました。