夏の陣にて、またしても淀殿に逆らわず…
その後、いったんは小康状態となった豊臣家と徳川家でしたが、やはり対立は再燃し、翌年に大坂夏の陣が起きます。家康は今度こそ豊臣家を滅ぼしにかかってきたのでした。
秀頼率いる大坂方は、冬の陣よりは兵がまとまり、何度となく徳川方を苦しめました。しかしやはり劣勢に立たされ、次々と主力武将が討死を遂げていきます。
そんな中、真田信繁は兵士の士気を少しでも高めようと、大坂城に入ったままの秀頼に出馬を求めました。秀吉の血を引く秀頼は高貴な存在であり、今までほとんど下々の者の前に姿を現すことはありませんでした。そんな秀頼が姿を見せれば、兵士たちはきっと想像を超える力を得るはずだと踏んだのです。
秀頼自身もそれに乗り気でした。しかし、そこで再び立ちはだかったのが、淀殿だったのです。
「秀頼の身に危険が及んだらどうするのか!」と、淀殿はにべもなく秀頼の出馬案を退け、またしても秀頼は母の言うことに従ってしまいました。
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大坂城落城と共に滅びる
秀頼の不出馬により、戦局を打開できないまま、次々と大坂方の武将たちは倒れていきました。そしてついに大坂城に火が放たれます。
秀頼はもうどうにもならないことを悟り、母・淀殿や側近たちと共に自害して果てたのです。23歳でした。
正室・千姫は逃げ出して命を長らえましたが、秀頼が側室との間にもうけた国松という男の子は捕まり、処刑されました。もうひとり娘がいましたが、彼女は千姫が引き取り育てることになります。
囁かれる秀頼生存説
ただ、大坂城落城時に秀頼の首が正式に発見されたわけではなかったため、その後どこからともなく秀頼生存説がささやかれるようになりました。「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田が連れて 退(の)きも退(の)いたり 加護島(鹿児島)へ」というわらべ歌が歌われたという言い伝えもあるのです。
また、同じ頃、鹿児島県内のある地区に「大柄な武士」が住みつき、酒を飲んではその辺で寝ていたり乱暴したりするという噂が立ちます。しかし、藩主が「その人物には手出しは禁止だ」と言っていたため、誰もどうすることもできなかったとか。
秀頼が巨漢だったことを考えると、もしかすると…とも思ってしまいます。
ただ、後に、大坂城の跡地からあごに介錯のあとが残る20代男性の人骨が発見されており、これが秀頼のものではないかと言われていますよ。
プリンスゆえの鷹揚さは、時代を生き抜くにはマイナスだった
歴史に伝わる秀頼の様子は、父・秀吉のような勇ましさとはほぼ無縁です。何不自由なく育てられ、父のように生死をかけた戦いに臨んだことなどなかったためかもしれません。それが母・淀殿の言葉に逆らわない彼を生み出してしまったのでしょうか。彼が少しでも母に意見することができたなら、豊臣家の行く末は少々違ったものになっていたのかもしれません。
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