古墳時代日本の歴史

現在の天皇家の祖先が生まれた「古墳時代」とは?詳しく解説!

日本の古代史において古墳時代は、現在の天皇家の祖先である大和朝廷(大王家)が歴史的にも存在が明らかになった時代と言えます。しかし、日本書紀や古事記の記載と考古学上の発掘結果や、中国の正史と呼ばれる官製歴史書の記載にはかなり違いがあるのも事実です。そのため、古墳時代を象徴する前方後円墳と呼ばれる古墳に注目が集まっています。 この古墳時代について解説することにしましょう。

弥生時代はいつから古墳時代に変わったのか?

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渡来人によって縄文時代とは大きく変わった弥生時代では、富の蓄積によって多くのクニが生まれ、勢力争いが展開されました。それもようやく落ち着いて、大きな勢力がこの日本列島を支配する段階となったのが古墳時代です

考古学上では、西暦3世紀前半に弥生時代から古墳時代に移行したと言われています。それはちょうど、奈良盆地の巻向地域に箸墓をはじめとした古墳群ができた頃と一致しているのです。巻向の北西部には弥生時代の唐古・鍵遺跡があり、その関連性が少ないことから、新たな勢力がこの地域に入って来たことを感じさせます。その勢力がこの日本列島を支配する時代に入ったのです。すなわち、現在の天皇家の祖先と言われる大和朝廷で、当時は天皇ではなく、大王と言われていました。

日本書紀や古事記(まとめて記紀)では、初代の神武天皇(イワレヒコ)から10代崇神天皇(ミマキイリヒコイニエノミコト)の時代にあたっているのです。この時代は、天皇のエピソードがなく、神武天皇と崇神天皇を除いて欠史八代とも言われています。しかし、エピソードがないのではなく、巻向古墳群が残されていることからも、黎明期としての初期古墳時代が確実に存在したことを示しているのです。

考古学と古代史学の違い

現代の古代史と考古学にはかなり解離があります。古代史と言われているのは、文献などを元にして古代の歴史を推察する学問です。それに対して、考古学は、あくまでも発掘などによる古代遺物の証拠物件によって古代を推察する学問になります。

しかし、現存する日本の古代の文献資料としては8世紀初頭の日本書紀や古事記(記紀)が一番古いものであり、しかも中国から入ってきた漢字によって記載されているのです。したがって、古代史における古墳時代の記録は数百年前の記憶でしかなく、正確性に欠けて言わざるを得ません。中国の歴代王朝の正史などにも倭国として記録はありますが、そこともかなり内容に差があります。

すなわち、古墳時代という時代区分はどちらかというと考古学上の区分であり、実際の文字による記録のない時代なのです。

古墳の名称も考古学と古代史では違っていることも

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したがって、古墳なども考古学上の古墳名称と古代史上の名称が違っていることも多いのです。例えば、世界遺産に登録された堺市の仁徳天皇陵も考古学上は大仙古墳となっており、世界遺産でも考古学上の名称になっています。ほとんどの古墳には、墓石(墓籍)がないことから、考古学的には実際に誰の墓かは断定できないのです。考古学上では地名で呼ばれ、古代史では日本書紀などの記載を元に古墳を推定して人物の名前を付けています。したがって、高松塚古墳のように記紀などに記載が見当たらない場合には、考古学上の地名による命名が使われているのです。

弥生時代と古墳時代の違いは何か

弥生時代と古墳時代の違いは、統一国家がない混沌とした時代に対して、大和朝廷と今の天皇家(当時は大王家)が日本列島の本州のかなりの部分を支配した時代との違いです。弥生時代には、統一国家はなく、それぞれの地域でクニが乱立していたと考えられています。ただし、その弥生時代にも出雲王国などの有力王国があったことが記紀にも記載されているのです。出雲の荒神谷遺跡ではそれまで見つかった弥生時代の銅剣総数を上回る数の銅剣が見つかっています。

弥生時代の古墳と古墳時代の古墳違い

弥生時代と古墳時代で考古学上において明確に違いがあるのは、古墳そのものです。弥生時代にあった倭国と言われる佐賀県の吉野ヶ里などの遺跡では円墳や甕棺(かめかん)が中心になっています。しかし、本州の日本海側(出雲王国勢力圏)では、四隅突出墳と呼ばれる方墳(四角形)が中心になっているのです。それに対して、古墳時代になると本州ではほとんどが前方後円墳という円形の古墳に四角形(台形)の台地をくっつけた形の古墳になります。

この権力者のお墓の型式の違いが弥生時代と古墳時代を分けていると言えるのです。

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