- 1.江戸時代中期まで超絶に貧乏だった庄内藩
- 1-1.由緒正しい家柄だった酒井家
- 1-2.参勤交代の旅費すら工面できなかった庄内藩
- 1-3.プライドを捨て、豪商に頼ることで財政再建に成功
- 1-4.領民たちに慕われた酒井家
- 2.戊辰戦争で連戦連勝!まさに無敗の庄内藩
- 2-1.倒幕に舵を切りたかった薩長
- 2-2.奥羽越列藩同盟結成へ
- 2-3.崩壊の危機を迎えた列藩同盟
- 2-4.機動防御を駆使して連戦を重ねる庄内藩
- 2-5.庄内藩を除く東北諸藩がほとんど降伏
- 2-6.さしもの庄内藩も降伏。しかし寛大な処置が
- 3.【無敵の庄内藩】その強さの秘密とは?
- 3-1.優れた装備と豪商本間家からのバックアップ
- 3-2.卓越した戦術家【酒井玄蕃】の存在
- 3-3.多くの部下が慕った玄蕃の人間性とは?
- 3-4.自由闊達な思想を育んだ庄内藩の教育
- 3-5.領民からの様々な援助
- 3-6.強大な新政府軍本隊とぶつからなかった幸運
- 現在に息づく庄内藩の心意気
この記事の目次
1.江戸時代中期まで超絶に貧乏だった庄内藩
徳川家康の老臣酒井忠次を先祖に持つ庄内藩酒井家ですが、貨幣経済の発達とともに借財を背負って財政は厳しくなり、貧乏のどん底まで叩き込まれました。そんな庄内藩がなぜ復活できたのか?戊辰戦争までの前史を振り返っていきましょう。
1-1.由緒正しい家柄だった酒井家
出羽国(現在の山形県)を治めていた最上家が改易となり、新たに庄内地方へ移ってきたのが酒井家でした。徳川四天王と称される酒井忠次の系譜を継ぐ由緒正しい家柄であり、東北地方の外様大名たちに睨みを利かせることを期待されていたといえるでしょう。
酒井家の石高は14万石といわれ、会津藩の松平家が約40万石、仙台藩の伊達家が100万石近かったとされていますからランク的には中規模くらいでしょうか。他地域の譜代大名たちもおおむね10万石前後の家が多かったわけですから、平均的な収入だといえますね。
とはいっても庄内地方は全国屈指の米どころですし、酒田湊は江戸時代になって開拓された北前航路の拠点でしたから、財政的には十分潤っていたはず…でした。
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1-2.参勤交代の旅費すら工面できなかった庄内藩
しかし豊かな藩ほど幕府から目を付けられるもの。それは譜代とて同じことでした。仏閣修理・土木工事などの普請を数多くやらされ、参勤交代も江戸から遠い庄内地方では経費もかさみます。
さらに第5代藩主酒井忠寄は老中となって、15年間も幕府中枢で政治に関わりました。おかげで交際費が驚くほど掛かり、財政圧迫へと繋がっていったのです。
ついに赤字へと転落してしまった庄内藩。その借財は莫大なもので、第7代藩主酒井忠徳が藩主に就いた時、あまりの財政難で参勤交代から庄内へ帰るための旅費すら工面できなかったといいますから、忠徳があまりの情けなさに涙を流したという逸話が伝わっています。
このままいけば経済的にデフォルトの状態になることは必至。藩政がうまく立ち行かなくては改易の可能性だってあります。そこで忠徳は思い切った手段に出たのです。
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1-3.プライドを捨て、豪商に頼ることで財政再建に成功
財政改革を断行しようとした藩主忠徳は、経済観念に疎い武士ではなく豪商本間光丘を大抜擢しました。商人特有の経済観念こそが藩を救うと考えたからです。ちなみに光丘はのちに米沢藩の財政改革にも手を貸していますね。
まず藩財政を年間予算制として徹底した緊縮を行い、借財で困っている藩士には超低金利で金を貸し出して負債を整理させました。また農民には低利融資と諸負担の全廃、放棄された田畑の開墾を奨励。さらには飢饉の際の救済策として備荒基金の設立などが行われました。
このため忠徳が藩主に就任してからわずか8年で1,500両もの剰余金を捻出することが可能となりました。天明の大飢饉の際にも、この備荒基金の存在によって一人の餓死者も出すことはなかったのです。
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1-4.領民たちに慕われた酒井家
ところが再び藩が豊かになった第8代藩主忠器の時、そんな庄内藩を妬んだのか天保11年(1840年)に「三方国替え」という幕命が下ります。
三方国替えとは大名3家の領地を玉突き式に交換させ、領主と領民の関係を切り離して移動させる転封処分の一つでした。なるべく特定の藩を豊かにしないための幕府の陰謀だったのですね。
ところが庄内地方の領民たちが一斉に立ち上がり、その代表者が江戸の幕府に対して反対の直訴をしたのです。やがて、これまで前例がなかった幕命の取り下げが実現したのでした。酒井家を慕う領民からの支持が高かったことを表していますね。
2.戊辰戦争で連戦連勝!まさに無敗の庄内藩
幕末から明治にかけ、新政府軍によって目の仇とされた藩が二つありました。一つは京都守護職を務めるも薩長の敵とみなされた会津藩、そしてもう一つが庄内藩でした。やがて戊辰戦争へと繋がっていきますが、そのあたりの庄内藩の動きを見ていきましょう。
2-1.倒幕に舵を切りたかった薩長
最後の将軍徳川慶喜が大政奉還に踏み切って政権を返上したため、260年続いた徳川幕府は終わりを迎えます。そして京都守護職を務めていた松平容保率いる会津藩兵も国元へ帰っていきました。
ところが慶喜は政権を返上したとて実権を握り続けたい思惑がありました。あくまで武力による徳川討伐を望んでいた薩長は、何とかして徳川家を戦いに引き込み、決着を付けようとしていたのです。
そこで薩長が取った作戦は、とにかく徳川方を挑発して暴発させること。どんな手段も辞さないという考え方でした。江戸へ不遜な浪人たちを多数送り込み、意図的に騒ぎを起こさせ、捕らえられようとすれば薩摩藩邸へ逃げ込むことを繰り返した結果、ついに業を煮やした幕府老中は「事件の黒幕は薩摩藩を討つべし!」と薩摩藩邸焼討ちの命が下すのです。
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