日本の歴史鎌倉時代

政府によって借金が実質的に帳消し!?「永仁の徳政令」をわかりやすく解説

借金が消えたら嬉しいもの。しかし、政府や貸している側からしたら借金がなくなって仕舞えばいろいろ不都合なことが起こってしまうのです。 今回はそんな借金帳消しによって困ったことになった永仁の徳政令について見ていきましょう。

そもそも徳政令って何なの?

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徳政令というのは簡単に言うと人々の救済処置のこと。特に借金取り消しが多いです。

徳政令の徳政は良い政治のことで政治を行う人の代替わりや、災害などで行う貧民救済活動指していました。それが鎌倉時代ぐらいに徳政令などのように救済処置を行う政治改のことを指すようになり、そしてその第一弾となったのが永仁の徳政令だったのです。

しかし、この永仁の徳政令は室町時代や戦国時代の徳政令とは全く違うものだったのでした。

永仁の徳政令について簡単に解説!

永仁の徳政令とは1297年に第9代執権の北条貞時が発令した鎌倉幕府が借金で苦しむ御家人たちを救うために出した法のことです。

幕府は菓子あげに挙げていた担保であった土地を買主から御家人に対して無償で取り戻せるようにして実質的に御家人たちの借金を帳消しにしてあげたのでした。

しかしこれに貸上は怒り、逆に御家人の生活は苦しくなっていくのです。

永仁の徳政令の背景とポイント

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永仁の徳政令が出されることになった背景にはこの当時の御家人の苦しい生活が関連していました。まずはどうして永仁の徳政令を出さなければならなくなったのかについて見ていきましょう。

貨幣経済の広がりによる御家人の困窮

鎌倉時代中頃から農村では刈敷と呼ばれる肥料の普及や、それによる二毛作の発達など農業技術が向上し農作物の収穫量がどんどん上昇していくようになります。余った農作物が売買されるようになりました。また、商業も発達し織物や和紙などの手工業品も大量に生産されるようになりました。

こうして経済が発展していくにつれて中国から大量に輸入された宋銭がこの経済活動の広がりに拍車をかけていくようになります。巷では借上と呼ばる金融業者が高利貸しにてご家人にお金を貸していき、貨幣経済が広がっていくように。もちろん。御家人たちもお金を使う機会が多くなり、肥料の購入や利息の返済などで支出が増加しました。

しかし、御家人たちは商業なんてするはずもなく、支出が大きくなっていくのにもかかわらず、収入が増えることがありませんでした。そのため、御家人たちは貸上に多大な借金をせざるおえなくなってしまい、これが問題の種となってしまったのです。

元寇による恩賞の未払い

生活に困窮する御家人たちに追い打ちをかけたのが1274年と1281年の2度に渡って行われた元寇(蒙古襲来)でした。

蒙古襲来では元軍が九州の博多湾沖に襲来し、鎌倉幕府側がこれを応戦して見事撃退した戦いですが、この戦争は全て防衛戦争であったため、恩賞の元となる土地が手に入ることはありませんでした。

さらには戦いにかかる諸経費は御家人の自腹。後にもらえるはずの恩賞をかたとして借金までしてお金を借りて宿泊代や食事代を賄っていたのでした。

しかし、結果は少しの恩賞を受けただけで借金を返せるだけの土地をもらうことはできませんでした。そのため手元には借金だけ残ってしまい、御家人たちは借金にそ首が回らなくなり、生活していくために泣く泣く自分の土地を売ったり質に入れたりしたのです。

分割相続の悩み

土地を手に入れられなかった御家人をさらに苦しめることになったのがこの当時の土地の相続の仕方でした。

室町時代や江戸時代に入ると武士の土地の相続は基本的に嫡男のみに継ぐことになっており、それ以外の兄弟は基本的には嫡男の家臣として働くのが普通でした。しかし、鎌倉時代では親が亡くなった時には土地を兄弟で均等に分けて相続する分割相続というシステムでした。この頃は嫡男であっても兄弟と同じ身分ということだったのですね。

確かに、こうすると兄弟間で問題は起き辛くなるかもしれませんが、何代かにわたって土地を分割していくと、分割に分割を重ねていくことになってしまうため、いつしか一人あたりに分け与えられる土地はどんどん小さくなり、それに連動して土地から取れる農作物もどんどん減っていくわけなのです。

そうなると収入が減ったことによって借金を返せることもどんどんなくなってしまうわけですから、御家人は苦しい生活を強いられてしまったというわけなんですね。

永仁の徳政令の目的とその内容

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永仁の徳政令を簡単に言うと『借金の担保はすべてチャラ』。これが一番わかりやすいと思います。しかし、永仁の徳政令はそのほかにも御家人の生活をどうにかしてよくしていこうとしていました。

次はそんな永仁の徳政令の内容について見ていきたいと思います。

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