関ヶ原の戦いではどちらにも属さなかったが…
三成は家康の行状を弾劾し、家康を討つとして挙兵しました。秀頼は大坂城にいたため、三成らの西軍の保護下に置かれます。一方の家康は東軍として、当時向かっていた会津征伐から戻り、両軍が激突することとなりました。
とはいえ、西軍・東軍の両方は、「秀頼のため」という大義名分をかかげていました。このため、秀頼自身はどちらにも加担してはいなかったのです。あくまで、豊臣政権内の重臣同士の戦いと位置付けられたのが、この関ヶ原の戦いでした。
結局、この戦いは東軍の勝利に終わり、徳川家康がさらに大きな力を持つようになります。秀頼は家康を労いましたが、この勝利は事実上の政権移行と同じことだったということに、豊臣政権は戦後に気づかされることとなるのです。三成は純粋に豊臣家の将来を案じての挙兵だったのですが、家康は、三成を倒して豊臣家を支える力を削ぐという陰の目的があったのでした。
こちらの記事もおすすめ
意外と知らない関ヶ原の戦い?戦いの背景からその後までをしっかり解説 – Rinto〜凛と〜
たぐいまれなる存在感で家康を圧倒した秀頼
関ヶ原の戦いの後、江戸幕府を開設した徳川家康によって、秀頼は徐々に力を削がれていき、石高も一大名クラスにまで転落してしまいました。しかし、豊臣家に忠誠を誓う武将は依然として多く、秀頼自身の堂々たる体躯と佇まいは、家康に脅威を抱かせます。ただ、これが家康による秀頼と豊臣家潰しに向かうこととなるのでした。
家康の策略により、一大名に転落
関ヶ原の戦いの後、家康は秀頼が各地に持っていた直轄地を領地再分配の名目で取り上げ、秀頼の石高は220万石から65万石にまで減らされ、一大名と同程度とされてしまいました。
その上、家康は江戸幕府を開設して将軍となり、明らかに豊臣家を凌駕するようになったのです。
この頃、秀頼は家康の孫娘・千姫と結婚し、家康とは姻戚関係となりますが、豊臣家と徳川家の関係は決して良好なものではありませんでした。
そこで、家康は、秀頼がどのように成長したのか一目見てみたいと思ったようで、秀頼との対面を望みます。一度は淀殿の反対に遭い頓挫しましたが、慶長16(1611)年、秀頼が19歳の時、ついに対面が果たされました。
家康が事実上の天下人となったとはいえ、関ヶ原の戦いで東軍に参加した者の中には、依然として豊臣家に忠誠を誓う武将も多くいました。加藤清正(かとうきよまさ)や浅野幸長(あさのよしなが)などです。彼らは「秀頼のために」東軍として戦っただけで、家康に忠誠を誓っているわけではありませんでした。
そして、秀吉は彼らに守られ、ついに家康との対面を果たしたのです。
こちらの記事もおすすめ
江戸幕府ってどんな幕府?一番成功した江戸幕府と当時について徹底解説 – Rinto~凛と~
「超」巨漢だったという秀頼
一説には、家康は対面した秀頼の堂々たる様子に、内心怯み、豊臣家を早いうちに消さなければと決心したとも言われています。秀吉の偉大さを感じ取ったのかもしれませんが、それ以上に、秀頼の見た目も圧倒的な存在感だったそうですよ。
というのも、秀頼は身長約197センチ、体重約161キロという「超」巨漢だったというのです。ドラマなどのイメージだと見目麗しい青年として描かれることが多いのですが、巨躯だったいうのは様々な書物に記録されています。
秀吉に溺愛されて育った秀頼ですから、おそらく人並み以上にいいものを食べて育ったことも理由でしょう。しかし、母・淀殿は女性として長身だったとはいえ、父・秀吉は小男だったと言われています。そんな両親から、そこまでの巨躯が生まれるのでしょうか。
本当に秀吉の子なのか?
父とは似ても似つかぬ容貌が伝わる秀頼は、この頃から「秀吉の子ではないのではないか」という噂が流れ始めたと言います。秀吉のあまたの妻たちの中で、唯一淀殿のみが二度も秀吉の子を産んでいるのです。となると、淀殿が密通したのではないかという話になりますね。そして、乳兄弟である大野治長(おおのはるなが)が実の父親なのではないかなどと、今に至るまで議論されているのです。
しかし、真相はいまだに不明。秀頼の出生については、私たちの想像の余地が大いにあると言えるでしょう。