- 1.貧困層から富裕層へ!名門ケネディ家の歴史
- 1-1貧しい移民だったケネディ家のルーツ
- 1-2父ジョーの成功と失脚
- 2. ケネディ大統領の生い立ち
- 2-1病弱でコンプレックスの塊だったケネディ大統領
- 2-2人生が一変したハーバード大学時代
- 3.ハーバード卒業後は海軍へ
- 3-1第二次世界大戦での活躍振り
- 3-2ケネディ大統領生還
- 4.いよいよ政界デビュー
- 4-1政治家デビュー
- 4-2下院議員になるジャック
- 4-3下院議員としての勇姿
- 4-4ジャック上院議員に当選
- 4-5幸せと地獄の後に訪れた栄光
- 5.ジョン・F・ケネディ大統領誕生
- 5-1大統領選挙に出馬を決めるジャック
- 5-2「外見戦略」で勝てた?大統領選
- 5-3ケネディ大統領の就任演説
- 6.起ってしまったケネディ大統領の暗殺
- 6-1「ダラスの悲劇」は民衆の前で起こった
- 6-2長期政策の「ニューフロンティア政策」
- トランプ大統領は、ケネディ大統領暗殺の秘密が書かれた機密文書を公開できるのか?
この記事の目次
1.貧困層から富裕層へ!名門ケネディ家の歴史
Cecil W. Stoughton – Scan from the original work, パブリック・ドメイン, リンクによる
ケネディ家といえば、「アメリカン・ロイヤルファミリー」と称される名家です。ケネディ大統領を語るなら、まずそのルーツを知ることも大切なこと。ここでは、簡単にケネディ家のルーツについてご紹介します。
1-1貧しい移民だったケネディ家のルーツ
ケネディ大統領は、1917年5月29日にマサチューセッツ州の大富豪ジョセフ・パトリック・“ジョー”・ケネディ・シニアの次男として誕生しました。曾祖父は、英国領アイルランドの貧しい農民で、飢餓から逃れるようにアメリカへ逃げてきた移民です。アイルランドの人々はカトリックを信仰しており、とても貧しく西部での農業は皆無。東部で労働者として働くしかありませんでした。
経済的に成功した者の中から政界に進出し勢力を得る人が出たのです。その2つをやり遂げたのが、祖父のパトリック・ジョセフ・ケネディ。ボストンでドックの労働者として働き、上流階級が社交場として利用するバーなどで事業に成功し、マサチューセッツ州下院議員と上院議員になり地元で有力な民主党員になります。
この頃のアメリカは、プロテスタントが強くカトリックの立場は弱かったのです。この宗教問題は、後のケネディ大統領の政治家人生の中で大きな障害となります。
1-2父ジョーの成功と失脚
カトリック系やアイルランド系のアメリカ人を束ねるボス的存在だった父は、祖父が築いた巨万の富を基盤に、民主党の有力政治家として活躍します。第32代大統領ルーズベルトと知り合い敏腕ぶりを発揮し、イギリス駐在大使にも選ばれるも、発言問題で政治家を失脚。
表舞台から姿を消し子どもたちを政界に送り込み、豪腕を振るったことも有名で、「ケネディ王朝」と称されるほどでした。その中の一人が今回の主役「ジョン・F・ケネディ」です。
2. ケネディ大統領の生い立ち
ケネディ大統領は、歴代大統領の中で人気No.1とか。でもバックにはいつも黒い存在が見え隠れしていたとか。「栄光」と「闇」の狭間で、苦悩するもアメリカの明るい未来を思い突き進んだヒーロー「第35代ケネディ大統領」の、生い立ちをご紹介します。
2-1病弱でコンプレックスの塊だったケネディ大統領
第35代ケネディ大統領(ジョン・フィッツジェラルド・”ジャック”・ケネディ)の、幼い頃はいくつもの原因不明の病にかかる体の弱い子で、生死を彷徨ったこともしばしばでした。激痛に襲われる背骨の障害は、大人になっても彼を苦しめます。
痩せっぽっちで病弱のジャック(ケネディ大統領)と違い、兄のジョーは体が丈夫で優秀。スポーツ選手として学校に貢献する優秀なエリートでした。カトリックの寄宿舎学校に入るもホームシックで家に返され、優秀な兄と同じチョート校に入学します。何をやっても勝てないジャックは、次第に意固地に。「モッカー(mocker)」という問題児となり、放校処分寸前にまで落ちてしまいます。病弱だったのには神経的なものもあり、兄弟を競わせて育てた父の厳しい教育が原因だったとか。
2-2人生が一変したハーバード大学時代
卒業後は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学するも体調不良で帰国し、次のプリンストン大学も健康問題により入学後6週間で退学しています。翌年父のコネでハーバード大学に入学後は健康で活動的になり、勉強はもちろん水泳やヨットなどで活躍し友達もたくさんできたようです。
特筆すべきは卒業論文。この頃父のジョーが、在イギリスアメリカ合衆国大使に任命され、2回ほどイギリスでの遊学を経験します。イギリスで見聞を広めたことをテーマにした『ミュンヘンの宥和(Appeasement at Munich)』という卒論を書きました。この卒論は教授にも高い評価を得ており、後に父の力によりプロの手によって構成され、『なぜ イギリスはねむっていたか』という本として出版。この本は、ベストセラーになっています。ハーバード大学入学当初は劣等生でしたが、卒業時の成績は二番でした。
3.ハーバード卒業後は海軍へ
Collections of the U.S. National Archives, downloaded from the Naval Historical Center [1], パブリック・ドメイン, リンクによる
ハーバードを卒業した頃は、血なまぐさいニュースが連日報道されていました。ジャックは第二次世界大戦がはじまると、「アメリカの安全」のために戦おうと海軍へ入隊します。実は、海軍の試験も体の状態から不合格でしたが、父のコネで海軍士官養成コースに入りました。
3-1第二次世界大戦での活躍振り
最初の配属先は、父の力で戦争に行かない海軍情報部でした。海軍士官になると、魚雷艇学校で猛訓練を受けました。大学時代のヨット経験が活き、魚雷艇さばきは抜群でした。少尉になったジャックは前線で戦いたかったのですが、魚雷艇学校の教官に任命され次第に訓練生たちの尊敬を集めます。
中尉に昇進すると同時に、日本軍と死闘を繰り広げる激戦地ソロモン諸島のツラギ島やレンドバ島への出撃命令が下りました。
1942年8月2日にジャックが指揮するPT109が、日本軍の駆逐艦天霧(あまぎり)に撃沈され大破し乗組員13人は夜の海に投げ出されました。この攻撃で2人が犠牲になり、助かったのは11人でした。
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