中国の歴史

日本と中国に翻弄された「宣統帝(溥儀)」の波乱万丈な人生を解説

ラストエンペラーとして昔映画にもなった愛新覚羅溥儀(宣統帝)。彼は清の最後の皇帝でありながら、日本に擁立され満州国の皇帝になるという2度違う国の皇帝になるという不思議な経歴を持つ皇帝でした。 果たしてどうしてこのような事態になってしまったのでしょうか? 今回はそんな宣統帝の生涯について見ていきたいと思います。

大清帝国皇帝としての溥儀

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清朝最後の皇帝である宣統帝は1906年に清朝第11代目皇帝であった光緒帝の弟である醇親王載灃の長男として首都である北京生まれました。

中国大陸の大帝国のプリンスとして生まれましたが、その生涯は生まれた時からハードモードと言えるようなものだったのです。

わずか2歳で皇帝に就任

宣統帝は当時清朝の皇帝としての家系であった愛新覚羅氏に生まれました。そのためその生活は裕福なもので広大な紫禁城の元で宦官と女官と共に優雅な生活をしていましたが、当時の清の状況は最悪そのもの。

アヘン戦争によってイギリスに敗北して以降、中国大陸にはイギリス・ロシアを始めとした欧米列強が介入。特にロシアは清の生まれた土地である満州に積極的に進駐し、イギリスはアヘン戦争の講和条約である南京条約で手に入れた香港を足掛かりとして清に干渉。

さらに1894年の日清戦争で新興国であった日本に負けたことでさらに列強の介入がヒートアップしていき宣統帝が生まれた時には列強の半植民地として扱われるほどだったそうです。

そんな中、清にて強大な力を持っていた西太后が亡くなる直前に宣統帝を皇帝に指名。

光緒帝と西太后が同じ時に亡くなり、わずか2歳10ヶ月の宣統帝が皇帝として就任したのでした。

辛亥革命と清の崩壊

こうして皇帝となった宣統帝でしたが、この頃の清はほとんど崩壊しているようなもので、皇帝としての実権は袁世凱が握っていました。

そして1911年には政府が全ての鉄道を国有化にするという宣言をしたことが理由となり辛亥革命が勃発。

この革命によって軍を動かせなくなってしまったため、さらに袁世凱の権力が増すこととなり、そして袁世凱は革命側の孫文との裏取引によって宣統帝に対して皇帝の退位を要求。

清側は皇帝は退位したのちも紫禁城で暮らすことを認めて、大清皇帝という形で礼遇することを条件に退位を決断してこれにより実質的に300年の歴史を誇った清の時代は終わりを迎えたのでした。

清の崩壊後

辛亥革命によって崩壊した清でしたが、条件付きの退位であったために紫禁城内では皇帝としての肩書きは保たれていました。

しかし、中国内では袁世凱が1915年に帝政の復活を宣言し自ら皇帝になるなどの混乱が起こり、さらに中国にいた軍閥などが地方の実権を握り中央政府の意見も聞かず勝手に政治を行い実質的な分裂状態に突入していました。

そんな中、宣統帝は1917年に保守派の張勲が中国のどさくさに紛れて清王朝を復活させようと紫禁城にいた宣統帝を再び即位させ清の復古を宣言。しかし、最終的に溥儀の再即位は当時北京周辺を統治していた北洋軍閥に敗北したせいで13日間で挫折しました。

イギリス人の出会いと改革運動

宣統帝の再即位は失敗に終わったものの、この頃に入ると紫禁城では西洋化を進めていこうという声が上がっていくようになりました。

宣統帝は当初は未知の存在であった外国人をを受け入れることを拒否していたものの、宣統帝の担当となったイギリス人のジョンストンとの初対面時にその語学力と博学ぶりに感心受け入れることを決心したそうです。

また、この頃から宣統帝は紫禁城にいた宦官や女官などを追放して経費を削減。

その代わりに紫禁城の近代化を推し進めていき西洋文化に触れていくようになりました。

紫禁城追放と日本への接近

こうして徐々に国民に認められていくようになった宣統帝でしたが、1924年に北京政変というクーデターが発生。

これによってこれまで認められていた紫禁城での生活と宣統帝という名前を剥奪され、紫禁城から強制的に追放されることになりました。

仕方なく、紫禁城から出た宣統帝こと溥儀はイギリスやオランダ大使館などに逃げますが拒否。最終的には日本大使館が引き取ることになりました。日本は当時同盟関係を結んでいたイギリスの依頼があり、それに答えた形でしたがのちに日本によって満州国皇帝になるとはこの頃は思ってもいなかったでしょう。

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