三国時代・三国志中国の歴史

孫堅・孫策の後を継ぎ呉の皇帝となった「孫権」をわかりやすく解説

中国大陸の中央部を流れる大河長江。赤壁の場所についてはいくつかの説がありますが、最も有力なのは湖北省の東南部にあり、長江の東南岸に位置する赤壁市です。この地で呉の君主孫権は北から攻め寄せる曹操の大軍を打ち破りました。それから、孫権は40年以上も呉の支配者として君臨し、三国の一角である呉の皇帝であり続けました。今回は孫権と呉の歴史についてわかりやすく解説します。

若き日の孫権は、曹操の脅威に対しどうやって立ち向かったのか

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孫権は182年に孫堅の子として生まれました。208年の赤壁の戦いのとき、孫権は26歳。対する曹操は52歳。曹操は華北全域と荊州を支配下におさめ、今まさに天下統一を果たそうとしていました。20代の若者だった孫権は、父や兄が残した家臣たちとともに一致団結して大敵に立ち向かいます。

黄巾の乱で活躍した父孫堅

孫権の父孫堅黄巾の乱の鎮圧で活躍した勇猛な武将でした。孫堅は荊州南部の長沙太守に任命されると、この地方で反乱を起こしていた区星を討伐します。この間、孫堅の軍団は戦いを通じて強くなっていきました。

189年、西涼から乗り込んできた董卓が少帝を廃位し献帝を擁立すると、董卓の横暴に反感を持っていた諸侯が反董卓連合軍を結成します。孫堅も連合軍に参加し、董卓軍と戦いました。

孫権軍は非常に勇猛で、董卓軍の将軍の一人である華雄を討ち取るなど戦果をあげます。反董卓連合軍の勢いを前に、董卓は都を洛陽から長安へと移しました。

反董卓連合軍は洛陽を取り戻したところで解散。その後、孫権は袁術陣営の一員として戦います。191年、孫権は荊州の劉表と戦い敗北、戦死してしまいました。

江南に地盤を築いた兄孫策

孫堅が劉表と戦い戦死したのち、子の孫策は袁術のもとで将軍の一人となりました。孫策は父の旧部下たちをまとめる一方、周瑜張昭、周泰凌操などの人材を確保します。

そのころ、袁術は江南に勢力を持つ劉繇と揚州の支配権をめぐって争っていました。孫策は袁術に叔父である呉景を助けるため劉繇と戦いたいと希望。袁術は孫策の兵力がさほど多くないので、勝手な行動はできないだろうと考えて許可を出します。

その孫策のもとに駆け付けたのが周瑜でした。孫策のもとに集まる兵は日に日に増え、ついに5,000人に達します。この兵力を用いて孫策は劉繇に戦いを挑みました。孫策は劉繇軍と戦いを重ね、時には劉繇配下の勇将太史慈と一騎打ちを演じます。

戦いは劉繇の逃亡によって孫策の勝利に終わり、太史慈も孫策に従いました。その後、孫策は呉郡、会稽郡を平定し江南に地盤を築きます。しかし、200年、孫策は刺客に襲われ命を落としました。

孫策軍団を引き継ぎ、積極的な人材登用を推し進めた孫権

孫策の急死により、孫権は19歳で孫策の軍団を引き継ぎました。孫策の配下のうち長老格であった張昭を師として遇し、周瑜・程普ら孫策軍団を支えた武将たちを束ね、軍団をスムーズ引き継ぐことに成功します。

孫権は孫策と同じく、積極的な人材登用を推し進めました。孫権が新たに採用した人材は魯粛・陸遜・諸葛均・徐盛・朱桓をはじめ多数にのぼります。

208年、劉表配下の江夏太守黄祖と戦いました。黄祖は父孫堅の直接の仇で、203年に戦ったときは敗れています。孫権は208年の戦いで黄祖に勝利し討ち取りました。

孫権は孫策から受け継いだ軍団に新たな人材を加えて順調に江南地方を平定します。ところが、孫権は跡を継いでから最大のピンチに直面。河北を平定した曹操が孫権に降伏を迫ってきたのです。

孫権は家臣団をまとめ上げ、赤壁の戦いで曹操軍に勝利

208年、荊州牧だった劉表が病のためこの世を去りました。曹操は劉表の後を継いだ劉琮を降伏させ、荊州を手中に収めると長江下流を支配していた孫権に対して降伏を求める使者を派遣します。

曹操からの書状を見せられた孫権の家臣たちは大いに動揺。張昭らは曹操と戦っても勝ち目はないとして降伏を主張しました。一方、軍事を司る周瑜や魯粛らは孫権に対して徹底抗戦を主張します。周瑜や魯粛の意見を採用した孫権は曹操と戦うことを決断しました。

この時、自分の決意を示すため孫権は剣で自分の机を切りつけると、「これ以上、降伏を主張するならこの机と同じになると思え」といって反対意見を封じました。孫権に全軍の指揮を預けられた周瑜は宿将である黄蓋にはかり、偽りの降伏と火攻めを組み合わせた作戦を採用。赤壁の戦いで曹操の大軍を撃破しました。

魏・蜀としのぎを削り、領土を拡大する孫権の呉

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赤壁の戦いで勝利し、独立を守った孫権は勢力の拡大を図ります。曹操やその子である曹丕とは長江の北岸や長江と淮河に挟まれた場所にある合肥をめぐってたびたび争いました。一方、赤壁の戦いでは手を組んだ劉備とは荊州をめぐって戦います。特に、劉備が義弟である関羽・張飛の敵討ちのため呉に攻め込んできたときは陸遜を登用して危機を乗り切りました。

関羽を討ち、係争地である荊州を確保

赤壁の戦いで曹操に勝利した孫権は、荊州の支配権は自分たちのものだと主張しました。しかし、孫権軍に一歩先んじた劉備や諸葛亮は荊州南部を素早く平定してしまいます。

しばらくは劉備の支配を容認した孫権でしたが、劉備が蜀を平定して領土を拡大すると荊州南部の返還を劉備に強く要求。交渉が頓挫すると、孫権は呂蒙に銘じて南荊州を占領してしまいました。一触即発の事態になりましたが、曹操軍が漢中に攻め込んだため劉備が妥協。南荊州のうち、長沙と桂陽を孫権に返還しました。

219年、荊州の支配を委ねられていた関羽曹仁が守る樊城を攻撃。孫権は曹操から、関羽の背後を突くよう頼まれました。孫権は絶好のチャンスと考え呂蒙に関羽の背後を突かせます。挟み撃ちにあった関羽は蜀に逃れようとしますが、呉軍にとらえられ処刑されてしまいました。

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