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アジア初の共和制国家誕生のきっかけ「辛亥革命」孫文が起こした革命をわかりやすく解説

『革命未だ成らず』これは辛亥革命という革命を主導した孫文の遺言だと言われています。 今でこそ中国はアメリカに次いで国内総生産は2の超大国と呼べるぐらいの力を手に入れましたが、20世紀前半はそんな影は見られず、外国の半植民地化が進んでいた情けない状況でした。 辛亥革命はそんな中国の体たらくをなんとかしようと起こした革命なんですが、この革命は一体何を目指していたのでしょうか? 今回はそんな辛亥革命について説明していこうと思います。

革命が起こるまでのあらすじ

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革命が起こる以前、中国は外国の植民地といっても過言ではないぐらい外国の介入が激しいものとなっていました。辛亥革命はそんな中国の現状を憂いた人たちが起こした革命でもあったのです。

まずは、辛亥革命が起こる以前の中国の様子についてみていきましょう。

アヘン戦争の敗北と国内の弱体化

1840年、清朝はアヘン取引のいざこざによって起こったアヘン戦争に敗北。かつて見たことがなかった蒸気船に衝撃を受けた清朝は近代化の必要性を感じ取り、洋務運動という欧米列強の知識を導入して殖産興業と富国強兵を目指すという運動が起こりました。

しかし、清朝は日本とは違い、広大な国家と守旧派の反対によって洋務運動は挫折。中途半端に近代化を取り入れた軟弱な国家となってしまい、ヨーロッパの介入を余計に招くきっかけを作ってしまったのです。

日清戦争の敗北と半植民地化

こうして中途半端な国となってしまった清朝でしたが、そんな清朝の弱体化が決定づけられた戦争が1894年に起こります。それが日清戦争でした。

日清戦争によって清朝は同じく近代化したばかりの国である日本にあっさり敗北。下関条約によって多額の賠償金と遼東半島・台湾・澎湖諸島を失ってしまう結果に終わってしまいました。

さらに、この日清戦争によってかつて『眠れる獅子』と恐れられた清朝のイメージは失墜。ヨーロッパ諸国は日本ごときに負けた清朝は絶対に勝てるという確信を得て中国に進出。

各地に鉄道や鉱山の建設権を無理やり奪い取り、さらに港も中国から租借という形で借りる形をとって清朝を植民地として扱い始めました。

これを受けて清朝は本格的な近代化を迫られるようになり、当時の皇帝である光緒帝は戊戌の変法を開始。しかし、これも西太后始め守旧派の反対を受けてしまい挫折に終わってしまいます。

中国は外国の植民地になりつつありながら、着実に清朝の崩壊が進んでいったのでした。

義和団事件と清朝の反感

こうして清朝は外国の介入を受けている中、民衆たちは外国人を排斥しようという運動が巻き起こり始めました。日本では攘夷運動という形で外国人排斥が行われた例がありましたが、中国の場合だとその外国人の排斥運動に加えて義和団という宗教要素も混じり、義和団事件という形で大爆発することとなります。

義和団事件では外国の大使館を焼き討ちしたり、外国人を殺害するなどめちゃくちゃな行動をとりますが、これを中国への進出を強めるチャンスと考えた列強は8ヶ国連合でこの乱を鎮圧。

北京議定書を無理やり結ばされてしまい、さらなる中国への進出を招く結果となってしまいます。

この頃になると守旧派の人も改革の必要性をついに考えるようになり、近代化を推進しようと欽定憲法大綱という憲法を制定しますが、時すでに遅し。もはや清朝の衰退は誰の目にも明らかだったのです。

第一革命〜革命の発端〜

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1911年、もう外国の植民地に成りかけていた清朝でしたが、この年清朝はさらに民衆の怒りを買うとんでもない行動に打って出ます。

当時、中国大陸では外国の資本を借りて鉄道網が発展。清朝政府はこの鉄道網を全て国のものにしようと外国から合計2000万ポンドを借り受けて鉄道国有化政策を打ち出します。

しかし、外国の資本を借りるという行為は外国に向けて侵略する口実を与えているのと同じ。さらに、この政策のせいで鉄道を建設していた中国の資本家たちは大損をこいてしまう結果を招いてしまいました。

もちろん、こんな政策民衆や資本家たちは黙ってはいません。民衆たちはこの政策に反対するデモを四川省で起こし、さらには10月には政府軍の兵士が武昌という都市で一斉に蜂起を起こしてこれが一気に中国各地に広がっていきます。

これこそが、清朝を滅ぼす辛亥革命の発端となったのでした。

清朝の崩壊

こうして武昌にて始まった辛亥革命。この革命の波は西安、上海に広がり、さらには蜂起した軍人たちは清朝からの離脱を決意して各地で共和制の国家を樹立するなど清朝の権威は一気に失墜してしまいました。

さらにこの頃ロンドンにて亡命生活を送っていた主人公である孫文がこの革命を聞きつけ急いで帰国。これを聞いた各地の軍人たちは占領した南京に集まって孫文を臨時大総統とした国家を設立。いわゆるアジア最初の共和制国家である中華民国が誕生した瞬間でした。

しかし、南京にて中華民国が成立してもまだこの時点では北京周辺にてまだ清朝は存続していました。しかし、この中国大陸の混乱に乗じてこの頃権力を握っていた袁世凱という軍人がクーデターを決行。当時幼かった宣統帝を退位に追い込んで297年続いた清朝は滅亡してしまいます。

これはこれまで秦の始皇帝から2000年以上王朝は変わりながらも続いていた皇帝による政治にピリオドを打つ結果となり、中国の新しい歴史が始まったのでした。

革命の陰り

こうして清朝が倒れて、新しい国家中華民国が誕生したのですが、この中華民国にはとある大問題がありました。

確かに、共和政という政治システムは今の大体の国が取り入れている最善のシステムだと思いますが、世の中には独裁の方が世の中を治められるという国もわずかながら存在しています。それがこの中国だったんです。

考えてみましょう。この中国という国は秦の始皇帝の時代から曲がりなりにも皇帝の独裁によって国が成り立っていました。つまり、これまでの歴史の中で中国という国は共和政になったことが一度もなかったということなんです。さらに中国という国は人口がこの頃でも6億を超えているマンモス国家。100万人の国家の民主主義と6億の民主主義だったらどっちの方が民衆を束ねられるのかは一目瞭然です。

この二つの理由があり、この中華民国が目指そうとした共和制はあっさり頓挫。そのかわり強力な軍事力を持っていた袁世凱が代わりに権力を持つようになり、その実態は政治の主導者が清朝の皇帝から袁世凱に変わっただけというなんとも悲しい出来事に終わってしまったのでした。

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