天安門事件の背景
20世紀後半、中華人民共和国は大きな転換点に差し掛かっていました。建国の父である毛沢東を中心とする人々は文化大革命を遂行し、反対派を一掃します。しかし、毛沢東の死とともに文革派は失脚。かわって政治の実権を握ったのが鄧小平でした。鄧小平は経済政策を見直し、中国経済を飛躍させる土台を築き上げます。そのころ、世界ではソ連のゴルバチョフ政権によるペレストロイカが行われ、冷戦終結の兆しが見えつつありました。
中国全土を揺るがした文化大革命
1958年、毛沢東は中国独自のやり方で経済発展を目指す大躍進計画を実行します。強引で品質を軽視した工業化は失敗。毛沢東は国家主席の座を退きました。かわって政権を握った劉少奇・鄧小平らは経済政策を大幅に修正し危機を乗り切ります。
しかし、毛沢東はこれに納得せず、劉少奇らを「資本主義の道を歩む実権派」として批判しました。この闘争は中央政府だけにとどまらず、社会全体に広がります。
毛沢東の思想に共鳴し、毛沢東語録を手に集まった学生主体の紅衛兵たちを毛沢東は利用しました。紅衛兵たちは「造反有理」を唱えて各地で武闘と称する激しい破壊活動を展開。党幹部などの有力者に「自己批判」を強制します。
中国全土でつるしあげや政治的迫害が横行し、社会は混乱しました。文革大革命は多くの犠牲者を出し、劉少奇や鄧小平は失脚します。
こちらの記事もおすすめ
どうして毛沢東は独裁者となってしまったのか?毛沢東の生涯について解説! – Rinto~凛と~
毛沢東の死と四人組の失脚と鄧小平の復権
1976年9月9日、毛沢東が82歳でこの世を去ると、毛沢東を後ろ盾として権力を握っていた夫人の江青など四人組とよばれた人々の権力基盤が危うくなります。権力の維持を図る四人組と彼らと対立する人々が毛沢東死後の権力の座を巡って激しく争いました。
10月6日、華国鋒、葉剣英らは先手を打って四人組を逮捕。華国鋒が党・政府の実権を掌握します。毛沢東の遺言と称して政権を握った華国鋒は、毛沢東が行った文革時代の政策を引き継がざるを得ませんでした。
しかし、文化大革命の10年間で中国経済は停滞・疲弊していたため、抜本的な改革を必要とします。華国鋒政権で存在感を増したのが復帰した鄧小平でした。
文化大革命で失脚していた鄧小平は1977年に復活。華国鋒、葉剣英につぐ中国のナンバー3として返り咲いていました。華国鋒が政権運営に行き詰まり失脚すると、鄧小平は党中央軍事委員会主席になり中国の最高指導者となります。
こちらの記事もおすすめ
良くも悪くも歴史を変えた最恐の世界の悪妻と悪女9選 – Rinto~凛と~
鄧小平による改革・開放経済
毛沢東が死去すると、中国政府は周恩来が提唱していた「四つの現代化」に取り組みます。四つの現代化は1964年に周恩来が提唱していましたが、文化大革命の混乱で実行できずにいました。ここでいう「四つ」とは、農業・工業・国防・科学技術のことです。中国を全体的に近代化させようというスローガンと考えるとわかりやすいですね。
文化大革命後に政権を握った華国鋒は1977年にふたたび四つの現代化を取り上げます。華国鋒失脚後に権力を握った鄧小平は四つの現代化にもとづく改革・開放政策を実施。中国経済の底上げをはかりました。
鄧小平は大胆な市場経済原理の導入や外国資本の導入に踏み切ります。改革開放により、沿岸部を中心に富裕層が現れる一方、都市と農村の格差は広がりました。
また、四つの現代化は産業・経済などに限られ、政治的な自由や共産党による一党独裁の見直しなどは一切含まれていません。このことが、民主化を求める天安門事件発生の理由の一つとなります。
ゴルバチョフ政権によるペレストロイカと胡耀邦の失脚
1985年、ソビエト連邦の新しい指導者となったゴルバチョフはペレストロイカといわれる一連の改革に乗り出します。ゴルバチョフはそれまでの外交方針を転換させ、東欧諸国の自主性を尊重する姿勢を明確にしました。
そのころ、中国では最高指導者鄧小平のもと、共産党は胡耀邦が、政務は趙紫陽が担当する体制でした。胡耀邦は人民公社の解体や社会主義市場経済の導入などで重要な役割を果たします。国民の間からは、経済の自由化にあわせて政治の自由化を求める声が高まりました。
鄧小平は、こうした政治改革や共産党一党独裁の見直しには断固として応じません。1987年、突如、鄧小平は胡耀邦総書記を解任します。胡耀邦が民主化勢力に対して軟弱な対応をしたというのが解任の理由でした。
こちらの記事もおすすめ
ソビエト連邦の立て直しのために実行された「ペレストロイカ」をわかりやすく解説! – Rinto~凛と~