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日本の中国進出に反発した中国国民の「五・四運動」とは?わかりやすく解説

中国の要求は拒否された

各アフリカ、中東などの植民地の独立が認められなかったため、朝鮮半島も独立は認められませんでした。また、中国政府は会議に中国国内の日本の占領地を中国に返還させるように要求していましたが、それも逆に日本の租借地として認められたのです。

中国国民の日本進出に対する反発が強まった

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民族自決を期待していた朝鮮半島の人々や中国国民の落胆は大きく、すぐに反日運動が強まります。3月1日には朝鮮半島で反日運動が火を吹き、三・一運動が起きました。そして、中国国内でも、山東半島の青島返還などを要求する反日運動が5月4日に火がついたのです。

満州はもともと女真族などの異民族の金王朝などがあったところで、日本陸軍の進出はこの地域の軍閥との関係だけでした。しかし、青島のある山東半島(山東省)の場合はかつて中原の古代王朝晋などがあったところで、中華民族である漢民族自身の土地です。そのため、日本の占領に対しては多くの中国人自身の反発はより大きく広がりました。

学生を中心に五・四運動が起こった

日本陸軍の占領と21カ条の要求によって、中国の人々の反感は強まりました。朝鮮半島の三・一運動も同じですが、反発のデモ行動はインテリの学生から始まりました。これは、香港の現在の抗議運動でも同じですね。

学生を中心とした抗議運動は、現在のようにインターネットがなくても多くの人々が集まったのです。さらにデモの情報は中国本土の各地に伝わっていきました。しかも、それを中国政府は、最初の頃は別にして、本気で積極的に取り締まろうとしなかったため、反日運動は中国全国に広まっていったのです。

五・四運動はどのような運動だったのか

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パリのヴェルサイユ宮殿でおこなわれたパリ講和会議で、日本がドイツから奪った山東半島の権益が容認されたことが中国国内にも伝わります。それを知った北京の学生数千人が1918年5月4日に天安門広場に集まってヴェルサイユ条約反対や政府の親日派要人の罷免を求めてデモをおこないました。このデモは暴徒化して中国要人を襲ったりしたため、中国政府は、学生を多数逮捕し、事態収集をおこなっています。しかし、各地の学生なども呼応してこの運動は坑日・反帝国主義運動に拡大・発展していきました。そのため、中国政府は、逮捕した学生を釈放し、ヴェルサイユ条約の調印拒否することとなったのです。この運動は日本製品の不買運動や排斥運動に発展していきました。

中国政府もこの段階では積極的に取り締まることはしなかったため、中国全土に反日運動は広がっていったのです。これを五・四運動と言っています。

五・四運動後、日本軍部の中国侵略野心は強まり、満州事変へつながる

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五・四運動によって中国国内における反日運動は強まったが、中国国内における権力争いも激化していました。中国全土が結束して日本に対する体制にはならなかったのです。軍閥間の権力争いは孫文の後継者になった蒋介石が北伐をおこないましたが、軍閥の大物の張学良は彼に従わず、対立していました。また、共産党は長征と言われる1万キロ以上に及ぶ長期的な遠征の結果、毛沢東が権力を握るようになっていたのです。

そのため、日本の関東軍は、青島はそのままにして、満州の植民地化に注力し、東北部の軍閥との対決になっていきました。そして、柳条湖事件の結果、満州事変が起こり、勝利した日本軍は清王朝のラストエンペラーだった溥儀を皇帝とする満州国を建国したのです。

これに反発した中国では、それまで対立していた蒋介石の国民党と毛沢東の共産党による国共合作が実現し、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に繋がっていきました。

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