南北朝時代室町時代戦国時代日本の歴史

戦いが絶えず幕府権力が比較的弱かった「室町時代」について元予備校講師がわかりやすく解説

応仁の乱と下剋上の風潮

嘉吉の変からおよそ40年後の1467年、京都では将軍家や有力守護大名家で家督をめぐる争いが起きていました。応仁の乱の始まりです。応仁の乱では全国の有力守護大名が東軍と西軍に分かれて戦いました。

東軍の中心人物は管領の細川勝元、西軍の中心人物は山陰11カ国の守護を務める山名宗全。両者は互いに一歩も引かず。戦いは長期化しました。そのうち、細川勝元も山名宗全も亡くなってしまいます。

八代将軍足利義政は戦いを終わらせうることが出来ず、応仁の乱は11年にわたって継続しました。

戦いの戦力として、新たに登場したのが軽武装の歩兵である足軽です。足軽たちは混乱に乗じて京都市中の寺社などを略奪しました。

応仁の乱で室町幕府の権威は地に落ちます。応仁の乱後、京都でも地方でも、下のものが上のもの排除して権力を握る下克上の風潮が強まりました。

室町幕府の滅亡

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室町幕府の力が著しく低下した16世紀、全国各地で下克上の風潮が盛んになり戦国大名が領国を支配する戦国時代となりました。京都では十三代将軍足利義輝が松永久秀らによって殺害されます。こうした混乱の中、尾張・美濃を支配していた織田信長は頼ってきた足利義昭を奉じて上洛。義昭を十五代将軍の座につけました。将軍として自ら政治を行いたい義昭は信長と対立。反信長包囲網を結成しますが、戦いに敗れ京都を追放されました。これにより室町幕府は完全に滅亡します。

将軍足利義輝の殺害

十三代将軍足利義輝の時代、近畿地方で一番の実力者は三好長慶でした。義輝は一時期、三好長慶と戦いますが、後に和睦。長慶と歩調を合わせて政治を行います。

三好長慶の死後、義輝は自ら政治を行おうとしました。これに反発したのが長慶の重臣である松永久秀三好三人衆です。1565年、松永久秀と三好三人衆は10,000の兵を集めて義輝がいた二条御所を急襲しました。

義輝は自ら薙刀や刀をふるって応戦します。しかし、多勢に無勢。義輝はこの戦いで戦死します。討ち取られたとも自害したとも言われますが、壮絶な死であったことは間違いありません。

宣教師ルイス=フロイスは義輝を「とても武勇に優れ、勇気ある人だった」と評しています。義輝は剣豪として知られた塚原卜伝の直弟子としても知られますので、最後の最後まで刀をふるって奮戦したことは間違いないでしょう。

将軍が家臣のそのまた家臣に当たる松永らに討ち取られたのは前代未聞で、下克上の象徴とされました。

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