- 室町幕府将軍15人一挙解説!あなたは何人知っている?
- [初代]足利尊氏(あしかがたかうじ)1338年~1358年
- [二代]足利義詮(あしかがよしあきら)1359年~1367年
- [三代]足利義満(あしかがよしみつ)1369年~1394年
- [四代]足利義持(あしかがよしもち)1394年~1423年
- [五代]足利義量(あしかがよしかず)1423年~1425年
- [六代]足利義教(あしかがよしのり)1429年~1441年
- [七代]足利義勝(あしかがよしかつ)1442年~1443年
- [八代]足利義政(あしかがよしまさ)1449年~1473年
- [九代]足利義尚(あしかがよしひさ)1473年~1489年
- [十代]足利義材(あしかがよしき)1490年~1493年
- [十一代]足利義澄(あしかがよしずみ)1495年~1508年
- [再登場]足利義稙(義材)(あしかがよしたね)1508年~1522年
- [十二代]足利義晴(あしかがよしはる)1522年~1547年
- [十三代]足利義輝(あしかがよしてる)1547年~1565年
- [十四代]足利義栄(あしかがよしひで)1568年~1568年
- [十五代]足利義昭(あしかがよしあき)1568年~1588年
- 跡継ぎ争いで揺れまくって戦国時代へ・室町幕府の光と影
この記事の目次
室町幕府将軍15人一挙解説!あなたは何人知っている?
室町時代とは、足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられた1338年から(または建武式目を制定した1336年)、15代将軍義昭が京都から追放される1573年までの235年(または237年間)のことです。時代区分の名称は、京都の室町(むろまち)に幕府を置いていたことに由来します。前半は南北朝分裂の混乱期、後半は織田信長や武田信玄など地方の武将たちが頭角を現し始めた戦乱期と、波乱万丈・紆余曲折の時代。そんな時代に、足利将軍たちはどのような功績を残していったのでしょうか。有名な将軍も影の薄い将軍もまとめて、ざくっとご紹介します。
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[初代]足利尊氏(あしかがたかうじ)1338年~1358年
室町幕府初代将軍は、足利尊氏です。
下野国足利(現在の栃木県足利市)を拠点としていた武士ですが、生まれや生い立ちなど詳しいことはよくわかっていません。
足利家はもともと、かの新田義貞と双璧を成すほどの鎌倉幕府の有力家臣でしたが、後醍醐天皇に荷担して幕府を滅亡に追いやります。
そして後醍醐天皇の評判が悪くなると今度は後醍醐天皇を都から追い出し、光明天皇を擁立。建武式目を制定して室町幕府を開きます。かなり行動派です。
20年近く将軍職を務め、戦で受けた傷がもとで54歳で亡くなります。
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[二代]足利義詮(あしかがよしあきら)1359年~1367年
尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻し、西へ東へ奔走している最中、尊氏の名代として鎌倉攻めのトップを努めたのが、尊氏の息子で当時まだ幼かった千寿王(のちの義詮)でした。年齢は3歳くらいだったと伝わっています。
1358年に尊氏が亡くなり、征夷大将軍に就任。しかしまだこの時は、室町幕府安泰という状況ではありませんでした。山名、畠山、大内、細川など有力大名たち同士の対立や離反が相次ぎ、将軍としての存在感の薄さは否めません。
また、父・尊氏が都から追い出した後醍醐天皇が奈良の吉野に都を作って開いた南朝とも争いが絶えず、苦労を重ねていたようです。
[三代]足利義満(あしかがよしみつ)1369年~1394年
病に倒れた義詮が時期将軍の座を託したのが、義詮の息子・義満でした。
義満は正室の子ではありませんでしたが、母親が天皇家の血を引いているといわれており、皇位を狙っていたのではないか……とも伝わっています。
真意はともかく、義満はかなりの実力の持ち主だった模様。ゴチャゴチャしていた南北朝の分裂を鎮めて統一し、中国(明王朝)との貿易も盛んに行って幕府を反映させます。
義満のとき、室町幕府の地位は絶対的なものに。政治も文化も一気に花開いて最盛期をむかえます。金閣寺として知られる鹿苑寺を建立したのも義満です。
左大臣や太政大臣などの要職も努め、明国から「日本国王」なる称号も授かります。
権勢を振るっていたさなか、病に倒れて51際で死去。皇位奪還には至りませんでした。
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[四代]足利義持(あしかがよしもち)1394年~1423年
偉大なる父・義満から征夷大将軍の職を譲り受けたとき、義持はまだ8歳。義満は存命中に将軍を継ぎましたが、実際には義満のほうが権力も人脈も持っていましたので、まるでお飾りのような状態が続きました。
さらに、父・義満とは不仲であったとも伝わっています。義満は母違いの弟であった義嗣を可愛がっていたのだそうです。
義満が死んでからは、義嗣を追い出し、義満が始めた明との貿易も止め、国交も断絶。一方で朝廷との友好的な関係を保とうとするなど、義満とは間逆ともいえる政策を採用していきます。これが、父への反抗心からなのかどうか、見解の分かれるところです。
また、息子である義量を大変可愛がっており、有力大名や朝廷に根回しをして、義量が若いうちに将軍職を継がせています。
[五代]足利義量(あしかがよしかず)1423年~1425年
父・義持の余りある愛を受け、17歳で将軍職に就いたのが義量でした。
しかし義量は、将軍になってわずか2年、19歳の若さでこの世を去っています。病死であったと伝わっていますが、父の愛が大きすぎてプレッシャーだったのか、重責に耐え切れずストレスが多かったのか、かなりの酒飲みだったとの説もあるほどです。
早世のため、父・義持(あしかがよしもち)が1425年~1428年の間、将軍代行を務めます。愛する息子を失った義持の心の内はどのようなものだったのでしょうか。
[六代]足利義教(あしかがよしのり)1429年~1441年
そんな義持も、やがてこの世を去ります。どういうわけか義持は、後継者を決めていませんでした。
誰が次の将軍に?ちゃんと公平に決めないと、戦争になってしまうかもしれません。室町幕府の家臣たちは奇想天外な方法を取ります。それはくじ引き!くじ引きで次の将軍を決めようと考えたのです。
くじ引きの結果、選ばれたのが義持の弟の義教。れっきとした義満の子どもですが、義満は子沢山でしたので将軍職に就く可能性は限りなくゼロ。義教は子供のころに出家して俗世から離れていました。
そんな感じで将軍になったせいもあってか、義教は争いを好んでいたようです。権力を持っていた寺院や有力大名などとの抗争が絶えず、家臣に暗殺されてしまいます(嘉吉の変:かきつのへん)。
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