南北朝時代室町時代戦国時代日本の歴史

戦いが絶えず幕府権力が比較的弱かった「室町時代」について元予備校講師がわかりやすく解説

有力守護大名の討伐

鎌倉時代と比べ、著しく影響力を強めたのが各地を治める守護大名です。鎌倉時代の守護は国の警察権や一国内の武士を統率して番役を務める役職でした。

しかし、室町時代の守護は土地の支配権をしっかり握り、一国内の荘園や公領からの税収を取得することができるようになります。鎌倉時代と異なり、領地を支配する力が強まった室町時代の守護を守護大名といいました。

有力守護大名の中には強大な軍事力を背景に幕府と事を構えるものも現れます。足利義満は1390年に岐阜県にあたる美濃の土岐康行を、1391年には山陰地方の山名氏清を、1399年には山口県の大内義弘を討伐し有力守護大名の力を削ぐことに成功しました。

義満が南北朝の合一を進めることができたのは、土岐氏や山名氏などの有力守護大名の討伐を終えていて力を増していたからです。

南北朝の合一

1336年に始まった南北朝の争乱は50年以上続きました。戦いは徐々に北朝有利に傾きます。1392年、室町幕府三代将軍である足利義満の時代、南朝を支持する楠木正勝ら河内の武士団が敗北。畿内のまとまった南朝勢力は消滅しました。

これに先立ち、南朝が有利だった九州でも今川了俊が南朝方を圧倒。全国的にも北朝の優位が確定します。こうした状況を背景に、足利義満は南朝に南北朝の統一を持ちかけました。

衰退し、北朝に対抗する力を失っていた南朝は義満の提案を受け入れざるを得ません。1392年10月27日、南朝と北朝の間で和議が成立。南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に位を譲ることで南北朝の合一が果たされました。これにより、朝廷の分裂状態は半世紀ぶりに解消されます。

日明貿易

南北朝の争乱の中で生まれた室町幕府は、鎌倉幕府ほど安定した大きな領地を持っていませんでした。そのため、財政面で不安定だったことは否めません。

直轄地である御料所からの年貢や土倉・酒屋などの高利貸しにかける税だけでは税収不足を補えませんでした。そこで、義満は中国を支配していた明と貿易しようと考えたのです。

1402年、足利義満は明に使者を派遣。中国に貢物をささげ、その返礼として莫大な贈り物を受け取る日明貿易の開始にこぎつけます。義満は国書で「日本国王臣源道義」と称し明の権威を認め明の臣下と称しました。

それと引き換えに、日本は銅銭や生糸などを大量に与えられます。明側にとって極めて出費が多い貿易ですが、日本にとっては大きな利益となりました。

正式な貿易船かどうかを確認するため「勘合」という合い札を用いたことから勘合貿易とも呼ばれますね。

義満の死後、四代将軍となった足利義持は日明貿易を屈辱的なものと考え廃止します。しかし、六代将軍足利義教が復活させました。以後、1547年まで貿易は継続します。

室町幕府の弱体化

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Degueulasse投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, リンクによる

1428年、足利義教が六代将軍に就任します。同じ年、近江の馬借の暴動が引き金となり正長の土一揆が発生。京都市中に乱入し借金の証文などを破却します。義教は低下した将軍権威を取り戻すため、守護大名家の家督争いに関与。独裁的な政治を行ったため守護大名から恐れられました。義教が嘉吉の変で殺害されたのち、幕府の権威はさらに低下。応仁の乱が京都で起きたことにより室町幕府の勢力は大きく弱体化します。

正長の土一揆

1428年、五代将軍足利義量の早世のため、一時的に政権を預かっていた四代将軍の足利義持が死去しました。幕府の重臣たちは時期将軍候補を集め、くじ引きによって次の将軍を選出しようとします。当たりをひいて将軍となったのが義満の子で義持の弟である義教でした。

就任直後の義教が直面したのが正長の土一揆です。この年、疫病の流行や凶作などがありそもそも正常が不安定でした。加えて、将軍の代替わりもおきたことが土一揆の引き金となります。

現在の滋賀県に当たる近江国の馬借(運送業者)が起こした一揆に近隣の農民が加わり勢力を拡大。借金帳消しである徳政の実施を求めて京都に迫る一揆勢を幕府軍は鎮圧できず、一揆勢の京都乱入を許します。

一揆勢は高利貸しの土倉や酒屋を襲撃し勝手に徳政を宣言しました。この一連の動きを正長の土一揆といいます。

嘉吉の変

正長の土一揆の沈静化後、義教は将軍権威を高めることに腐心します。義教が政治モデルとしたのは父である三代将軍義満でした。

義教は有力守護大名家で家督争いなどが生じると積極的に関与します。また、関東を支配していた鎌倉府のトップである鎌倉公方が関東管領の上杉家とトラブルを起こしていたことを利用し、討伐軍を差し向け鎌倉公方を弱体化させました。

「次は自分が狙われるのではないか」と守護大名が疑心暗鬼になる中、播磨守護の赤松満祐は京都にある赤松家の屋敷に将軍義教を招待し、謀殺してしまいます。この事件を嘉吉の変といいました。

その後、赤松氏は幕府の討伐軍を相手に激しく抵抗します。同時に代替わりの徳政を要求する嘉吉の徳政一揆も勃発。幕府権威は大きく低下しました。

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