幕府役人でありながら幕府政治を批判する平八郎
「大塩平八郎の乱」は、江戸時代も末期にあたる1837年に起こりました。もうあと30年もすれば明治維新を迎えて世の中の多くの価値観が変わってしまう時代を迎えることになります。まず平八郎がなぜ暴動事件を起こすに至ったのか?彼の心情や考え方、心の機微などを知っておく必要があるでしょう。
徳川と縁が深かった大塩家とは?
平八郎の生家【大塩家】は、戦国時代には駿河の戦国大名今川氏の家臣でした。主家は滅亡してしまいますが、のちに徳川氏に仕えるようになります。
平八郎のご先祖様は小田原城の戦いの際、徳川家康の馬前で敵将を討ち取るという功があり、家康直々に弓を賜ったという逸話がありますね。その後の大坂の陣でも戦功があり、旗本として徳川幕府を支えることになりました。
平八郎の家系は分家ですので、代々大坂東町奉行所の与力として歴任していたそうです。
祖父の薫陶を受け、清廉潔白な人格を養う
1793年に大坂天満で生まれた平八郎は幼名を文之助といい、幼くして両親に先立たれたために祖父の大塩政之丞が親代わりとなって育てられました。
祖父の教え方が厳格だったためか?それとも元々の性格だったためか?平八郎は子供の頃から清廉潔白を信条とし、曲がったことが大嫌い。しかも非常に頑固で易々と人には従わない性格だったといいます。
やがてわずか14歳で大坂東町奉行所与力見習いとなり、成長と共に実力をめきめきと付けていくことになりました。政情不安や飢饉などが重なる不安定な時代でしたから、佐分別流槍術や中島流砲術などを学び、不測の事態に備えていたといいます。
1820年、27歳の頃に大阪東町奉行として高井山城守が着任。高井の下で能力を認められた平八郎は、切支丹の逮捕や悪徳役人の糾弾、破戒憎の処罰などで手腕を発揮し、目付役などの筆頭にまで出世したのです。
陽明学に傾倒する平八郎
1830年、高井山城守の奉行辞任とともに平八郎も職を辞して、跡目を養子の格之助に譲ります。この時まだ38歳。隠居するには若すぎる感はあるのですが、彼が陽明学に目覚めて熱心に研究するようになったのはこの頃からでした。
私塾「洗心洞」を開き、多くの著書を刊行して頼山陽や近藤重蔵といった著名人たちとも深く交わりました。彼の学識の深さは、頼山陽をして「小陽明」とも言わしめるもので、陽明学者としての評価は高かったものと思われます。
ところで彼が熱心に研究していた陽明学とはどういう学問だったのか?少し解説していきましょう。
幕府は元々、儒教思想に基づく朱子学という学問を奨励していました。簡単に言えば「学問を学ぶことこそが学問を修める近道」という論を説き、いわば理論的に学問を解釈するというものでした。道徳や秩序を重んじ、礼儀や身分の上下を肯定することが、世の中を治める最も良い方法だというわけです。こういった考え方は幕府の施政方針とも一致していて、身分制度を大義名分としたい幕府にとっては好都合だったわけですね。
いっぽう陽明学の場合は、「学問を修めるためにはまずは実践ありき」という実践論が要でした。知識があっても行動が伴わなければ、それは学問とは言えず、学んだことはまずは実践せよという考え方だったのです。仮に陽明学で幕府政治を解明しようとすれば、その存在の矛盾点に気付くことになります。
ゆえに陽明学とは幕府の批判勢力にもなりかねない危険な学問ということになり、1790年には時の老中松平定信によって排除されていますね。
平八郎は陽明学を研究するにつれ、幕府政治の多くの矛盾点に気付くようになります。やがて生真面目で厳格な彼の性格と相まって「幕府の腐敗した政治を正さねば!」という結論へ達していくのです。
大塩平八郎の正義感が爆発!「大塩平八郎の乱」が勃発
陽明学の観点から幕府の矛盾を見抜き、飢饉と貧困にあえぐ民衆を目の当たりにした時、平八郎の感情は爆発します。その矛先は汚職にまみれた幕府官吏と富裕豪商へと向かうのでした。
天保の飢饉で困窮する民衆
江戸三大飢饉の一つとして呼ばれる【天保の飢饉】が起こったのは1833~1837年のこと。東日本地域を中心とした大凶作は、「天下の台所」ともてはやされた大坂にすら大きな影響を与えました。
コメの収穫が激減したことによって米価が高騰し、大都市大坂でも庶民の口に入らなくなりました。そればかりではなく、大坂市街の管理を任されていた大坂町奉行の無策によって事態に拍車が掛かったのです。
高井山城守の転任後、大坂東町奉行を務めたのは跡部山城守でした。時の老中水野忠邦を兄に持ち、その威光を笠に着るような問題の人物で、たしかにコメの流出を防ぐため、コメを市外へ出すことを禁じたり、近隣からのほんのわずかな買い米にも厳罰で臨む一方、幕命だとして密かに腹心の与力を播磨に派遣し、第12代将軍徳川家慶の就任祝賀として多量の米を江戸に送らせたのです。それも全ては自分の立身出世のためでした。
また、ただでさえ少ないコメを豪商たちが買い占めたため、さらなる高騰に拍車が掛かり、大坂市内でも餓死者が相次ぎました。跡部はそういった豪商たちのなりふり構わぬ強欲ぶりにも「知らぬ存ぜぬ」を決め込んでいたそうです。
困窮する民衆のために立ち上がる平八郎
そのような状況を、ただでさえ正義感が強い平八郎が見て見ぬふりをするわけがありません。隠居したといえどもかつては大坂町奉行所の与力。なるべく波風が立たぬように救急策を跡部山城守へ上申します。
ところがまったく顧みられないばかりか、「身分をわきまえぬ不届者」と叱責されることになりました。これには彼のプライドも大きく傷ついたことでしょう。「大坂町奉行が聞き届けてくれないのならば誅罰に及ぶまで。また彼らの不正を幕府へ直接訴えるしかない。」そう決意した平八郎は次の行動へ移ることにしました。
1837年2月、平八郎が長年にわたって買い入れた蔵書を売却し、貧民1万人に対して救済活動を行いました。売却した書籍代は630両余り。現在の金額にして1億3千万円といわれますね。またこの間にこの間に太刀や槍、鉄砲、大砲、竹槍などの武具を調達しました。
いっぽう幕府老中など幕閣に対して、大坂町奉行の不正や汚職を書き連ねた書簡を送り、決起の正当性を主張しようとしました。
とはいえ、乱の始まる8年前に「大塩門弟に不穏な動きあり。」として京都代官小堀主税によって探索を受けていますから、計画自体はずっと前から準備されていたものなのかも知れません。