日本の歴史江戸時代

江戸時代異国に開かれた数少ない窓だった長崎の「出島」ー元予備校講師がわかりやすく解説

江戸時代、幕府直轄の港として海外に開かれていた長崎。その一角にオランダ人たちが居住していた出島があります。幕府は一般の日本人と外国人の接触を制限するため出島にオランダ人を集めました。その一方、長崎は貿易の一大拠点として江戸時代を通じて歴史の表舞台に立ち続けます。今回は長崎貿易と出島について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

江戸幕府の対外政策

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江戸幕府は豊臣秀吉の時代から行われていた朱印船貿易を廃止し、貿易を長崎1港に限ります。その理由はキリスト教の侵入を防ぐことと貿易を幕府が独占することにありました。長崎では中国人(清国人)は唐人屋敷に、オランダ人は出島に居住させます。長崎のほかに、蝦夷地、琉球、対馬が外国と接触する窓口として存在していましたが、幕府が直轄する交易は長崎で行われました。

キリスト教禁止と貿易制限

17世紀前半、それまで自由に行われてきた対外貿易は幕府によって制限されるようになります。その背景には幕府が進めたキリスト教禁止の方針がありました。そのため、キリスト教の禁止と貿易制限は同時並行で行われます。

1612年、徳川家康は幕府の領地でキリスト教を禁止。翌年、幕府は禁教令を全国に拡大しました。1624年、幕府はスペイン船の来航を禁止します。1633年には朱印状だけではなく老中の許可証である奉書をもった船のみ、海外渡航を許されるようになりました。

1637年におきた島原の乱は幕府のキリスト教に対する危機感を最大限高めます。その結果、宣教師を送り込んでくる可能性があるポルトガル船の来航が禁止されました。イギリスは1623年にオランダとの争いに敗れて撤退していたため、日本と貿易可能なヨーロッパの国はオランダだけとなります。

出島の建設と唐人屋敷の設置

1641年、幕府はそれまで平戸に置かれていたオランダ商館を長崎の出島に移します。出島とは、長崎港内につくられた扇型の人口島のこと。はじめは、ポルトガル人を隔離する目的で作られました。

面積は14,000平方メートルで、石橋で長崎市街と結ばれます。入り口には見張り番所が設置され出入りは厳重に管理されました。出島の内部には商館長であるカピタンの館や通詞(通訳のこと)の部屋、土蔵、菜園、家畜小屋などが設置されます。

オランダ人たちは無許可で出島の外に出ることはできません。日本人で出島に入ることが許されたのは通詞や町年寄、料理人など限られた人たちだけでした。

キリスト教徒ではない中国人は、長崎市内に自由に居住していましたが、貿易が盛んになり中国人の来航数が増えると、長崎奉行は1688年に唐人屋敷を建設。唐人屋敷は2,000人ほどを収容できる大規模なものでした。

江戸時代の4つの口

江戸時代、外に開かれていた場所は4か所でした。北から順に、松前、対馬、長崎、琉球です。

松前では蝦夷地のアイヌやその奥にある樺太・千島・中国東北部などと交易をおこないました。松前藩は交易をおこなうだけではなく、蝦夷地沿岸で漁場を展開。日本人商人たちに漁場を管理させて、運上金をおさめさせました。

対馬では対馬藩主の宗氏が朝鮮王朝と交易します。朝鮮王朝は江戸幕府に対して通信使を派遣し、交渉を保ちました。

琉球は1609年に島津家久が琉球王国を征服することで日本の勢力圏に組み込みます。薩摩藩は琉球を滅ぼさず、清王朝と貿易するための窓口として琉球王国の存続を許しました

松前、対馬、琉球が諸藩の支配下に置かれていたのに対し、長崎は幕府による直轄統治でした。

長崎貿易と出島

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幕府直轄都市として、長崎奉行の支配下に置かれた長崎。貿易の中心地であるだけではなく、外国との接触の場だったため、江戸時代を通じて注目されやすい街でした。19世紀になり、世界情勢が大きく変化すると、オランダ以外の外国船が日本にやってくるなどしたため長崎奉行は対応に追われます。19世紀前半にはシーボルト事件も起きました。

幕府による長崎統治のはじまり

戦国時代、長崎は大村氏の領地でした。大村純忠は長崎でポルトガル人と南蛮貿易をおこないます。1580年、大村純忠は長崎をイエズス会に教会領として寄進しました。

1587年、豊臣秀吉が九州を平定した時、長崎がイエズス会に寄進されたと知って秀吉は大いに驚き、長崎を自分の直轄に編入します。

関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、長崎の管理権は江戸幕府に移りました。幕府は直轄地である長崎を統治するため、長崎奉行を派遣します。また、長崎の警備には北九州の大藩である黒田氏の福岡藩と鍋島氏の佐賀藩が宛てられました。

長崎奉行は長崎市内の行政・裁判だけではなく、貿易をおこなう長崎会所の監督や収益金の幕府への上納、輸出品である銅や俵物の管理にあたりました。

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