奈良時代日本の歴史

「風土記」とは?中でも古代神話の宝庫の「出雲風土記」を解説

日本最古の古代史書として残っているものには、日本書紀、古事記とともに風土記があります。作成当時には、大和朝廷から編纂指示はすべての国に出され、それぞれ編纂がおこなわれたとかんがえられるものの、現存しているのはわずか5つの国の風土記のみです。しかも、出雲風土記を除けば、エピソードはなく地元の特産物などの記述のみになっています。その意味で、出雲国風土記は国史ともいえる日本書紀や古事記とは違った神話などが記載されており、古代文書としては貴重な資料といえます。この出雲風土記について解説します。

大和朝廷から編纂を命じられた風土記とは

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奈良時代初期の天平期に、元明天皇の詔(みことのり)によって地方の各律令諸国の国司、郡司、国造(クニノミヤツコ)などに対して風土記の編纂が命じられています。郡郷の名前、産物、土地の肥沃の程度、地名の起源(由来)、各地で伝わる旧聞異事について古老などから聞き取って報告を風土記としておこなうように命令されているのです。歴史的には地誌にあたり、貴重な資料でした。しかし、現在では各地の風土記の大半は逸文され、失われており、大和朝廷から編纂するように命じられて残っている風土記は、出雲国、播磨国、肥前国、常陸国、豊後国の5つにすぎません。

現存の風土記で唯一伝承が残っているのは出雲風土記のみ

しかも、出雲風土記以外には、各地で伝わる旧聞異事のどの伝説はなく、地名の起源についても限られています。完全な形で内容が残っているのは出雲風土記のみなのです。そのため、古代における私たちの日本に残っていた言い伝えがわかるのは、日本書紀、古事記以外には出雲風土記だけになっています。日本書紀や古事記には、朝廷や天皇家、有力豪族において都合の悪い記述については削除されている傾向が見られ、古い神社などに残る伝承と違っていることも多いのです。例えば、最初の神武天皇を除いた8代の天皇についてのエピソードは記載されておらず、欠史八代と呼ばれています。

記紀にはない伝承が残っている出雲風土記

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しかし、出雲風土記の場合にはその傾向は少なく、記紀にはない出雲の古い言い伝えなどが残されているのです。記紀には出雲とその王国の主であった大国主命(オオアナムチ)についての記述も多く残されていますが、それは前後の神話との整合性がとれていません。

例えば、高天原の天孫族である天照大神からの国譲り神話などは、唐突です。

せっかく建御雷命(タケミカズチノミコト)が出雲で大国主(オオクニヌシ)から葦原中国(アシハラノナカツクニ)の国譲りを了承させます。しかし、実際に天孫(ニニギノミコト)が天降り(天孫降臨)したのは九州の高千穂の峰となっているなどはよい例でしょう。

大国主の逸話は多く残されているものの、出雲風土記にはこのような国譲り神話は簡単でなぜ国譲りをしなければならなかったのか、記紀、出雲風土記とともに記載されていません。

記紀と違う出雲風土記の神話伝承

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このように、出雲風土記には日本書紀とは違った逸話や生活の状況がいくつも残されています。日本書紀も含めて考えれば、この日本列島には古代の大和朝廷が成立する前には、出雲王国が成立していた可能性が高いといえるでしょう。

例えば、日本書紀にも、大国主命はスクナビコナ命とともに葦原中国(日本列島と思われる)の各地を巡って、さまざまな施策や医療などをおこなっていたことが記載されています。また、出雲風土記には、稲刈りの終わった10月には各地の神(各地の小国の王)が出雲に集まっていたとしているのです。そのため、日本の各地の月の呼び方では10月は「神無月」と言われるのに対して、出雲では「神在月」と呼ばれていたとされていることなどはよい例といえます。

いずれにしても、考古学上では出土品(銅剣など)から九州と出雲を含む中国地方以東は別の文化圏の地域となっているのです。また、出雲の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などでは、国内で発見されている銅剣を越える銅剣が発見されり、大量の銅鐸も大量に出土していたりしています。これらは、大和朝廷が成立する前の弥生時代のものであり、その当時までは出雲には大きな王国が成立していたことが推測できるのです。

出雲の代表的な独自神話である国引き神話

出雲風土記には、多くの神話(エピソード)が記載されていますが、もっとも有名なのが国引神話です。

意宇(オウ)郡の名前の由縁として記載されている神話(エピソード)として国引き神話が記載されています。八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅヌノミコト)が、「この出雲の国は細長くて、国を小さく作ってしまったから、縫い足して大きくしよう」と言って国引きをしたとしているのです。国引きをしたのは、新羅、佐岐の国(サキノクニ)、良波の国(エナミノクニ)、高志(コシ)の津津の三埼(ツツノミサキ)などでした。「国来(くにこい)、国来」と船を引くように引き寄せては国を広げていきます。国引きが終わって国が広がると八束水臣津野命は、杖を突き立てて「意恵(オエ)」と言ったことからその地域をなまって意宇と言うようになったことが記載されているのです。

国引き神話は出雲のいろいろな古代の歴史を示唆している

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八束水臣津野命は出雲国の神(スサノオノミコトの系譜の将軍か?)ですが、この国引き神話は多くの事を示唆している神話です。一つには、古い時代から出雲は朝鮮半島の新羅との関わりがあったことを示しています。朝鮮半島にいた倭族との関わりを想定させるもので、後に奈良盆地に進出するニギハヤヒ命を連想させてくれるのです。また、新羅以外は日本列島における出雲よりも北あるいは東の地域であり、現在の新潟(昔の高志の国)まで出雲王国は支配していた可能性があることを示唆しています。

古代では日本列島の中心は現在のように太平洋側ではなく、日本海側であり、出雲王国は中国地方から新潟辺りまで支配する大国であったことがわかるのです。なお、高志の国は、後の越の国であり、さらに後には越前、越中、越後に別れましたが、現在の福井県から新潟県の北陸地方を指していました。これらの地域を軍事力で制圧していったことも連想できます。

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