激動の時代に自らの意思を貫いた志士「維新三傑」とは?
幕末に活躍した志士たちは現代でも人気があるので、他の人を加えてほしい!という声が聞こえてきそうな気もしますが、一般的に「維新三傑」というと西郷隆盛(薩摩)、大久保利通(薩摩)、木戸孝允(長州)の3人のこと。今さら説明の必要もないほど有名な3人ではありますが、どんな人物だったのか、改めて解説したいと思います。
誰からも慕われ星になった大人物「西郷隆盛」
西郷隆盛(さいごうたかもり)は1827年(文政10年)に薩摩藩下級士族の家に生まれました。家は相当貧しかったと伝わっています。
聡明で名君とうたわれた薩摩藩主島津斉彬 (しまづなりあきら)に仕え、下級武士ながら早くから藩内外の政治や活動に加わり、才能を発揮していました。斉彬亡き後に薩摩藩主となった島津久光からは疎まれ、二度も遠島(奄美大島と沖永良部島)に。何度も中央から退いていますが、人望が厚く多く人気があったため、そのたびに返り咲いて前線に立ち活動しています。
禁門の変、王政復古、戊辰戦争など、幕末の重大な事件では中心となって奔走。明治政府発足後は参議として忙しい日々を送っていました。大久保利通らが外交のため海外へ渡航している間も留守を守って新政府を切り盛り。いがみ合う長州や薩摩、土佐など各藩出身の志士達を束ね、新政府のやり方に対する不平不満を抑えるために苦心を重ねます。
不満の矛先を他へ向けるべく、征韓論(朝鮮半島侵略)などを打ち出しますが、帰国した大久保利通や岩倉具視らに一蹴され、やがて中央を追われることに。郷里の鹿児島に戻って私学校を開き余生を過ごしていましたが、西郷を慕う若者たちが大勢集まったため、明治政府から目を付けられ、危険分子と警戒されてしまいます。
西郷を警戒する明治政府と、西郷を守ろうとする若者たちの溝は深まるばかり。同時期、山口県や佐賀県でも、明治政府に対する不満を募らせた者たちが発起して反乱を起こします。弾圧に動く政府軍に対し、西郷もついに発起。西南戦争にまで発展してしまうのです。
1877年、市吾郷隆盛は政府軍の総攻撃を受け、鹿児島県中部の城山というところで自刃。
この年は火星の大接近があった年でした。夜空に浮かぶ赤い星を不思議に思った市井の人々の間に「赤い星の中に軍服を着た西郷隆盛の姿が見えた」といううわさが流れ、大騒ぎになったそうです。混乱する世の中を不安に思い、西郷隆盛の死を悼む人々が多かったことが伺えるエピソードとなっています。
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目的のため自らを貫いた憎まれ英雄「大久保利通」
大久保利通(おおくぼとしみち)は1830年(文政13年)、薩摩藩の下級武士の家に生まれます。幼少期より西郷隆盛とは学友であり親友でありました。
武術は得意ではなかったそうですが、その分勉学に長けており、早くから記録係として堅実な仕事ぶりを見せています。
大久保利通や西郷隆盛の青春時代、薩摩藩は島津斉彬と島津久光の二派に分かれて、水面下でじわじわと後継者争いが進んでいました。島津斉彬は新しい思想の持ち主で、早くから製鉄をはじめとする様々な技術に興味を持ち、海外の情勢にも目を向けていました。その分金遣いも激しく、父親の島津斉興との間に確執があったと伝わっています。
藩のトップの軋轢は、若い藩士たちの将来を左右することにも。大久保利通の父はこのお家騒動の余波で謹慎の身となり、大久保自身も出世の道を閉ざされ、不遇の時代を過ごしています。
斉彬亡き後、島流しされた西郷に代わって藩政に参加。頭角を現していきます。王政復古や新政府立ち上げに尽力し、明治政府の中心人物として活躍。ヨーロッパの国々をお手本とした強い日本国づくりに奔走します。
日本という国を根本から作り変えようというのですから、時には強引なやり方も必要です。職や身分を失うことを心配した地方の武士たちから不満の声がふつふつと上がりますが、明治政府はすでに動き出しており、歩みを止めるわけにはいきません。中央で絶大な権力を持ち、欧米諸国と対等に渡り合える強い日本を作ろうとする大久保に、武士たち不満が集中。幼いころから切磋琢磨し尊敬しあってきた西郷隆盛とも、考え方の違いから袂を分かつ結果となってしまいます。
西郷隆盛が西南戦争で自刃した翌年の1878年、現在の千代田区紀尾井町付近で、馬車で移動中に襲われ、暗殺。この世を去ります。
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冷静と情熱をあわせ持つリーダー「木戸孝允」
木戸 孝允(きどたかよし・こういん)は1833年(天保4年)に長州藩の藩医・和田昌景の長男として生まれます。幼名は和田小五郎。幼少のころは大変病弱だったそうですが、非常に優秀で、剣術にも学問にも長け、次世代のリーダーとして期待されていたと伝わっています。
若いころ、吉田松陰に弟子入りして学問を習得。松陰とは師弟として友人として、固いきずなで結ばれていたのだそうです。
元服後、桂小五郎と改名。剣術で研鑽を重ね、江戸留学も果たしています。武士の出てはない分、人一倍努力を重ねた桂小五郎。このとき、後の新撰組組長・近藤勇や坂本龍馬、武市半平太らと顔を合わせる機会があったとも言われています。
木戸孝允(このときはまだ桂小五郎)が江戸で剣道場の塾頭を務めていた1854年。日本は大きな岐路に差し掛かります。ペリーが再び来航。開国をせまります。この出来事に大いに刺激を受けた小五郎は、つてを使って実際にペリー艦隊を見に行っているのだそうです。
この年、小五郎の長年の師匠である吉田松陰が、下田に停泊中のアメリカ軍船に潜入して密航しようとして失敗(下田踏海事件)するという事件が発生。松陰は捕縛され、斬首刑。小五郎も密航の同行を申し出ていたそうですが、松陰は小五郎の身を案じて制止したと伝わっています。この配慮により、小五郎は難を逃れることができました。
小五郎はこの後、西洋の学問、特に像戦術を積極的に学び、最先端の技術を身に着けていきます。徳川幕府に任せていては日本は変われない。1862年からは長州藩の重要なポストに就き、藩を討幕へと導きます。
藩同士は反目しあう間柄でありましたが、西郷隆盛や大久保利通らには一目置き、ともに王政復古を実現。新政府発足後は大久保利通と共に外遊にも加わっています。
征韓論では西郷隆盛に反対しますが、強引に物事を進める大久保利通にも反発。やがて明治政府中央からは離れていきます。もともと体の弱かった木戸孝允ですが、長年の無理が祟ったか、徐々に床に臥すことが多くなったようです。西南戦争の最中の1877年、病が悪化し、この世を去ります。
「維新三傑」選定の理由とは?
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が偉大な功績を残したことは周知のことですが、それにしても、幕末に活躍した人物はほかにもたくさんいるはずです。なぜこの3人が「維新の三傑」と呼ばれるようになったのでしょう。幕末から明治に活躍した人々に思いをはせながら、「維新三傑」と呼ばれるようになったきっかけを探りたいと思います。
「維新の三傑」の名付け親は?
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允はほぼ同世代。亡くなったのも1877年~1878年と、ほぼ同じ時期です。
この3人を維新の立役者とする文章は、3人が亡くなって間もない頃から既に、当時の書物や出版物の中に登場します。
まず1878年11月に、岩村吉太郎によって『皇国三傑伝』(大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の伝記をまとめたもの)が刊行。大久保利通が暗殺されて間もない頃です。おそらくこれが最初の「三傑」ではなかったかと思われます。
さらに、1884年3月に山脇之人によって書かれた『維新元勲十傑論』では、この3人を挙げて「明治の三傑」との一文が。
1892年11月刊行の内山正如編『維新元勲三傑詩文集』にも「明治維新の三傑」と記されています。ただし、他の三傑を挙げている書物もあるため(西郷隆盛、大村益次郎、勝海舟など)、必ずしも1パターンではなかったのかもしれません。
「維新の三傑」という言葉は有名ですが、国民投票が行われたわけではなく、明治政府が決めたわけでもありません。ただ、幕末から明治にかけて多大な功績を残し活躍した3人を称えた書物が、人々の記憶に新しいうちに刊行されたことが「維新の三傑」を有名にした要因になったと考えられています。
「維新の三傑」に坂本龍馬は入らないの?
幕末に活躍した志士として人気が高い坂本龍馬。薩長同盟や大政奉還といった数々の出来事の裏にはこの人の存在があったと伝わっており、功績の大きさからみれば「三傑」と呼ばれてもおかしくないのでは、と考える人も多いようです。
ただ、前に述べたように「維新三傑」とは、明治に入ってから考え出されたもの。坂本龍馬は時代が変わる前に暗殺され、亡くなってしまっています。明治政府の要職に就いたわけでもなく、政府のために働いたこともありません。もちろん、生きていれば政府のために働き、さらなる功績を積んでいたはずです。しかし残念ながら、明治に代わるより前に亡くなっているため、「維新三傑」に加わることは叶わないと考えるべきでしょう。
また、坂本龍馬がこれほどまでに人気の志士になったのは、坂崎紫瀾『汗血千里の駒』や司馬遼太郎『竜馬がゆく』など、坂本龍馬を取り上げた小説が注目されてからとも言われています。坂本龍馬はもともと、土佐の下級武士の出で、若くして脱藩しているため、どこの組織にも属さずフリーで活動していました。功績は大きくても各藩や新政府の記録にほとんど名を残しておらず、こうした点も「維新三傑」に選ばれなかった理由に挙げられます。
幕末から維新にかけて第一線で活躍し続け、明治政府の確立に尽力し、同時期に亡くなったこと。「維新三傑」としてこの3人が各書物で取り上げられた理由はこうしたところにあると思われます。
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