永享の乱に至るまでの時代背景
鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ)と関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)の衝突から起こった永享の乱は、そこに至るまでの背景が複雑でした。乱の当事者である彼らの背後には、鎌倉府と室町幕府の因縁があったのです。いったいどういうことが原因だったのか、ここでご説明しましょう。
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永享の乱とは?
永享の乱は、永享10(1438)年、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から起き、そこに室町幕府が介入した戦乱です。
鎌倉公方とは、室町幕府が関東統治のために設置した鎌倉府の長官。関東管領はその補佐役で、両者は協力し合わねばならない関係でした。もちろん、鎌倉公方は室町幕府のトップである将軍に従うことが前提。しかし、この三者の関係は非常に複雑なものとなっていくのです。
幕府と鎌倉府の対立
関東には、鎌倉府に従う豪族たちがいる一方、京都にいる将軍と直接主従関係を結んでいた京都扶持衆(きょうとふちしゅう)という武士もいました。当然、京都扶持衆は鎌倉公方に従うつもりはなく、関係は険悪。つまり、京都扶持衆を束ねる将軍とも、鎌倉公方はあまり良い関係ではなかったのです。
このような状況下で、前関東管領・上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が、時の鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こします。持氏はこれを討伐し勝利しますが、残党狩りという名目のもと、京都扶持衆や親幕府の豪族などを攻撃し、幕府と鎌倉府の対立はさらに深まっていきました。
次期将軍をめぐるゴタゴタ
応永32(1425)年、5代将軍足利義量(あしかがよしかず)が若くして亡くなったため、父親であり前将軍でもある足利義持(あしかがよしもち)が再登板して政務を執ることになりました。6代将軍の座は空位のままでしたが、義持の猶子(ゆうし/相続権のない養子関係)でもあったとされる持氏は、次期将軍位を望むようになったのです。元を辿れば、鎌倉公方は室町幕府を創設した足利尊氏の四男の血筋であるため、自分が将軍になっても何ら問題はないと持氏は考えていました。
ところが、間もなく義持が亡くなると、彼が後継者を決めていなかったことから、重臣たちは会議によって、次期将軍をくじ引きで決めることにしたのです。そして選ばれたのが、出家して僧侶となっていた義持の弟・義円(ぎえん)でした。これが、6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)となります。
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不満を募らせていく足利持氏と、鎮静化に必死の上杉憲実
次期将軍がくじ引きで決められたことに対して不満を抱いた足利持氏は、やがて幕府に対しても反抗的な態度を取るようになりました。しかし、持氏をサポートする関東管領・上杉憲実は、なんとか両者の間を取り持とうと必死で奔走します。ところが、事態はやがて持氏と憲実の関係にも亀裂を入れてしまう方向に進んでいくのです。永享の乱勃発直前までを見ていきましょう。
将軍になれなかった足利持氏の不満
くじ引きで決められた将軍・足利義教に対し、足利持氏は大きな不満を抱きました。「くじ引き将軍」と彼を揶揄し、将軍就任祝いの使者も派遣せず、元号が変わっても以前のものを使い続けたのです。
この様子を見て危惧を抱き、何とか持氏と将軍の間を取り持とうとしたのが、関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)でした。穏健派だった彼は、持氏による改元無視を幕府に詫びたり、将軍になれないことに不満を抱き、兵を連れて上洛しようとした持氏を説得したりと、とにかく必死で仲介しようとしたのです。
足利持氏と上杉憲実の関係が悪化
しかし、持氏は憲実のこのような動きに対して不快感をあらわにし、やがて彼を遠ざけるようになりました。ちょうど同じ頃、信濃(しなの/長野県)で争いが起き、持氏は支援を求めてきた方の援護にと出兵しようとしたのですが、憲実は「信濃は鎌倉府の管轄外です」と制止。憲実の言うことの方が断然筋が通っていますが、持氏はさらに不快感を強め、やがて、持氏が憲実を討伐するのではないかという噂まで立ち始めたのでした。
ついには両陣営に兵が終結し、一触即発の事態となります。その後会談が持たれたものの、憲実は関東管領を辞任してしまいました。また、直後に行われた持氏の息子・義久(よしひさ)の元服が幕府に許可なく勝手に行われたこともあり、憲実は元服祝いを欠席します。すると、持氏暗殺の嫌疑をかけられてしまい、我慢の限界に達した彼は、出奔して領国の上野(こうずけ/群馬県)に戻ってしまったのでした。