アメリカの歴史独立後

東西冷戦によって生じた「赤狩り(レッドパージ)」って何?背景・何が行われたのか解説

自由主義陣営の指導者の不安_武力革命も辞さず、私有財産を認めない

ヨーロッパやアメリカが恐れたのは、共産主義が、私有財産を認めず、企業の自由主義的な行動も制限されることと、それを武力革命によって実現することを認めている点でした。さらに、ソ連がその共産主義革命をほかの国に広げることだったのです。そのため、自由主義政権は、共産主義の拡散によって革命が起こり、個人の私有財産が取り上げられ、企業の自由な活動もできなくなることを恐れていました

ソビエト連邦のスターリンは当初共産主義の拡散には反対だった

image by iStockphoto

レーニンは早くに亡くなり、スターリンが後継者になりますが、彼は当初は共産主義の他国への拡散には消極的でした。そのため、共産主義の拡散を主張していた政敵であるトロツキーを追放し、暗殺したのです。まずは、ソ連国内にいる自由主義者の反乱を押さえて、国内の安定を図ることを重視しました。

予想をくつがえすソビエト連邦(ソ連)の東欧支配

ソ連は連合国側で参戦したため、第二次世界大戦中の欧米の戦争を終結させる会議(ヤルタ会談、ポツダム会談など)にはソ連のスターリンも参加していたのです。そのため、欧米諸国はソ連が共産主義の拡散をしないことを信じていました(チャーチルのみ反対した)。

しかし、第二次世界大戦が終わって見ると、ソ連は東欧諸国に進駐してそれらの国に社会主義国家を樹立させたのです。

しかも、東欧諸国とともに軍事組織であるワルシャワ条約機構や経済協力機構としてコメコンを結んでアメリカ、イギリス、フランスなどの欧米諸国と対立する姿勢を示しました。

東西冷戦の始まりとともに赤狩りもスタート

このソ連の行動によって、欧米諸国は反発して、対抗するようにNATO (北大西洋条約機構)を作り、ついに東西冷戦の時代に突入してしまいます。ドイツではベルリンの壁が建設されて、人々が西ベルリンの自由主義国に脱出することを阻止しようとしたのです。

そして、欧米では、共産主義者を摘発して社会から追放する動きがおこります。これが赤狩りと言われたのです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: