アメリカの歴史独立後

東西冷戦によって生じた「赤狩り(レッドパージ)」って何?背景・何が行われたのか解説

赤狩りの実態は?どのようなことが起こった?

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赤狩りは世界中でおこなわれましたが、それが一番活発だったのはアメリカ合衆国でした。実際の赤狩りが活発におこなわれたアメリカの動きを中心に見てみましょう。

中南米での共産主義の台頭_キューバ革命とカストロの盟友チェ・ゲバラの南米活動

ソ連を追放されたトロツキーは中南米で共産主義者を育成して、共産主義革命を目指していました。その後継者として現れたのが、カストロやチェ・ゲバラでした。キューバ革命が成立するとカストロはその国家代表になりますが、チェ・ゲバラは南米に渡って更なる共産主義革命を目指しました。その動きに警戒感を強めたのがアメリカだったのです。

アメリカ社会における共産主義への強い警戒感

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このような中南米における共産化活動に最も警戒したのはアメリカでした。アメリカは、1899年のスペインとの戦争に勝利してカリブ海諸国の宗主国になっており、南米に対しても経済協力に力を入れ、大きな市場として期待していたのです。

そのため、キューバ革命やチェ・ゲバラの動きには神経質になり、共産主義者に対する赤狩りに力を入れるようになりました。1947年には、非米活動委員会で、チャーリー・チャップリン、ウィリアム・ワイラーなどのアカデミー賞をとった著名映画人や多くのハリウッド俳優やスターたちも対象になり、一時追放された人もいたのです。

アメリカ上院議員のマッカーシー氏による糾弾_マッカーシズム

その赤狩りの中でも目立ったのが、共和党の上院議員であったジョゼフ・マッカーシー氏による共産主義者の摘発とアメリカ上院における排除法律成立に向けた動きでした。これをマッカーシズムと呼んでいました。

マッカーシー氏は、アメリカ合衆国の連邦職員やマスメディア、映画関係者などの共産主義者のリストを若手弁護士のロイ・コーンに調査作成させて攻撃を繰り返し、追放させたのです。そして1954年8月にはマッカーシー氏が提案した共産党統制法が成立しています。

ただし、そのリスト作成には、偽証や事実の歪曲などの不正や協力者の密告、告発を強要していました。そのため、1954年12月にはアメリカ上院は、マッカーシー氏を上院などの議会に不名誉と不評判をもたらしたとしてKEN責決議がおこなわれています。その背景には、マッカーシー氏の追求がアメリカ軍内部、とくに陸軍に及んだために軍部が反発したことがありました。

そして、アメリカの赤狩りも下火になりました。

共和党上院議員マッカーシーのハリウッド映画関係者、マスメディア関係者の狙い打ち

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マッカーシー氏の批判の対象になった人の中には、フォーク歌手のウディ・ガスリー、ピート・シガーやハリウッドの有名映画監督だったジョン・ヒュースなども含まれていました。これらの有名人を攻撃することでマッカーシー氏は、危機感をあおり、人気を集めようとしたのです。彼の信奉者には、後のアメリカ大統領になるJ・F・ケネディもいました。

ドイツなどでは逆にナチス追及による極右思想の追放が課題になっていた

一方で、ヨーロッパにおける赤狩りはアメリカほどは燃え上がりませんでした。ドイツなどでは、赤狩りよりも戦争を引き起こしたナチスの残党狩りが積極的におこなわれていたのです。また、戦勝国であったフランス、ベルギー、オランダなどは第二次世界大戦による国土の焦土化がひどく、そちらの復興が優先されていました。

日本における赤狩りの実態

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アメリカで赤狩りがおこなわれるようになると、当時GHQが駐留していた日本でも当然赤狩りがおこなわれるようになりました。そのようすを見てみましょう。

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