- 「アメリカ建国の父」、政治家としてのフランクリン
- フランクリンの生涯1・わずか13歳で新聞のコラムニストに!
- フランクリンの生涯2・出版人として大成功してベストセラーを生む
- フランクリンの生涯3・出版業から政治の世界へ転身
- フランクリンの生涯4・アメリカ独立宣言を起草
- 科学者?発明家?フランクリンの意外な一面とは
- フランクリンの意外な一面1・避雷針を発明した!
- フランクリンの意外な一面2・有名な凧の実験を行う
- フランクリンの意外な一面3・まだまだあるフランクリンの発明品
- フランクリンの意外な一面4・フランクリンは自己啓発本の元祖?
- フランクリンの意外な一面5・フランクリンでも守れなかった?13の生活習慣
- 「時は金なり」、フランクリンのようにすぐやってみよう!
この記事の目次
「アメリカ建国の父」、政治家としてのフランクリン
ベンジャミン・フランクリンは1706年1月17日、アメリカのマサチューセッツ州・ボストンで生まれました。その生涯でさまざまな仕事を成し遂げたのですが、もっとも偉大な功績は政治家としてのものでしょう。まずはフランクリンがどんな政治家だったのか、生い立ちとともに解説していきます。
フランクリンの生涯1・わずか13歳で新聞のコラムニストに!
ベンジャミン・フランクリンは17人兄弟の15番目の子として生まれました。父親のジョサイアはロウソク職人で、アンという女性と結婚しましたが死別して、ベンジャミン・フランクリンの母親となるアビアと再婚しています。家が貧しかったのでベンジャミン・フランクリンは10歳までしか学校に通えず、13歳の時に新聞「ニュー・イングランド・クーラント」紙を発行していた兄を手伝うことになりました。そこで彼は働きながら独学で文章の勉強をして、記者や編集者として活躍します。といっても、子どもが書いた文章など簡単に新聞に載せてもらえるわけではありません。そこでフランクリンは夜にこっそり、印刷所に自分が書いた記事を置いておいて、それを読んだ兄は弟が書いたものとは知らずに新聞に掲載したのだそうです。
なにはともあれ、人気のコラムニストとなったフランクリン。しかし兄の新聞は自由主義的な論調によって発行禁止の処分を受け、フランクリンが代わりに発行人になります。その後、不仲になった兄とのケンカが絶えず、ついに17歳の時にボストンを出て独立する決意をしました。
フランクリンの生涯2・出版人として大成功してベストセラーを生む
ボストンを出てニューヨークを目指したフランクリンでしたが、そこでは職を得られず、さらに南のフィラデルフィアで仕事を見つけます。さらに知事のすすめによってイギリスに渡って印刷技術を勉強。帰国すると23歳の時に「ペンシルベニア・ガゼット」紙を買収して発行人となりました。これはアメリカの植民地時代にもっともよく読まれていた新聞で、初のタブロイド紙(日本の夕刊紙のようなちょっと小さいサイズの新聞)を発行しています。
さらに1731年にはアメリカ初の公共図書館(フィラデルフィア組合図書館)を設立。これをもとにアメリカ全土で図書館が作られるようになりました。1734年には『貧しいリチャードの暦』という日めくりカレンダーを発行します。当時の庶民は本なんてあまり読まなかったので、フランクリンはカレンダーにちょっとした格言とか処世術などの役立つ言葉を書いて、だれでも気軽に読める読み物として売り出したんですね。これが大ヒットして、1万部を超えるベストセラーとなりました。
フランクリンの生涯3・出版業から政治の世界へ転身
こうして出版・印刷業者として名声を高めたフランクリンは、1737年にフィラデルフィアの郵便局長に就任。1743年にはアメリカ学術協会を設立するなど、人々に学問を広める啓蒙思想家として活躍します。そして1748年にはついに印刷業から手を引いて、ペンシルベニア植民地議員や郵便総局長といった公職に専念するようになりました。こうして、フランクリンは政治家としての道を歩みはじめました。
1749年にはフィラデルフィア・アカデミーの創設に協力。のちのペンシルベニア大学で、現在もアメリカのアイビー・リーグの1校として非常に有名な大学です。1764~1775年にはペンシルベニア植民地の代理人としてイギリスに渡って、植民地の待遇の改善をイギリス議会で訴えました。またこの時、科学者としての功績を認められてイギリスの伝統校・オックスフォード大学から名誉学位を授与されています。10歳で学校をやめた少年が、大人になってオックスフォードの学位を得るなんてすごい話ですね。
フランクリンの生涯4・アメリカ独立宣言を起草
1776年7月4日、アメリカ独立宣言が採択され、アメリカは独立しました。この独立宣言をトーマス・ジェファーソン(のちの第3代大統領)らと共に書いた5人のメンバーに、フランクリンは含まれています。独立戦争ではパリへと飛び、戦争に介入しないように各国と交渉。このおかげでフランスの独立戦争への協力を取り付け、他国にはイギリスに味方しないように約束させることに成功します。こうした活躍から、フランクリンは「アメリカ建国の父」として語り継がれるようになったのですね。
その後もペンシルベニア議会の議長を務めたり、難航していたアメリカ合衆国憲法の制定に関わるなど、生涯をアメリカの独立と国家の立ち上げのために捧げます。そしてついに1790年4月17日、フィラデルフィアで死去。84年という当時としては長い人生に幕を閉じたのでした。
科学者?発明家?フランクリンの意外な一面とは
冒頭でも書きましたが、アメリカの100ドル紙幣にはフランクリンの肖像画が使われています。また、1963年まではハーフダラー銀貨(50セント銀貨)にも肖像が描かれていました。こうして見てきてもわかるように、勤勉で、探求心と公共心にあふれ、アメリカの独立に大きく貢献したフランクリンはアメリカの偉人の中でも別格的な存在なのです。しかしフランクリンの偉大なところはそれだけではありません。この章でフランクリンの意外な一面についてみていきたいと思います。
フランクリンの意外な一面1・避雷針を発明した!
フランクリンは政治家・思想家としてだけでなく、科学や発明といった分野でも活躍しました。当時はまだ学問が細分化されていなかったこともあって、頭がいい人はいろんな学問をやっていたんですね。しかもフランクリンが発明したものは、今でも大変役に立っています。そのひとつが「避雷針」です。雷が人や建物を直撃しないようにする大きな針のようなもののことですね。
フランクリンは1746~1747年に電気の研究を行って、雷が電気現象であることを証明しました。そして1749年に避雷針を発明します。当時は高層ビルなんてありませんから、高い建物である教会に取り付けようとしました。でも、当時はまだ「雷は神がお怒りになったから落ちるのだ!」などと言って、教会では避雷針で雷を誘導することに反対する声があったんですね。そこでフランクリンは「屋根が雨を防ぐのと同じように、避雷針も雷を防ぐためのもので宗教的な意味なんてない」と反論。結局、現実的に雷の被害を防げるので、避雷針はさまざまな教会に取り付けられました。