奈良時代日本の歴史

名刹にして仏教の母とも言える「比叡山延暦寺」を元予備校講師がわかりやすく解説

僧兵による強訴

平安時代の後期から中世である鎌倉時代・室町時代にかけて、京都や奈良の大寺院は自衛のために下級僧侶を武装させるようなりました。これを僧兵といいます。大寺院は僧兵によって寺院や寺院が持つ荘園の権利を守りました。

平安時代の末期、延暦寺の僧兵は一大勢力となり、寺院同士の争いなどで力を誇示します。時には日吉神社のみこしを担いで京都に出て、朝廷や摂関家に対し強引な要求を突きつけました。これを強訴といいます。

武力と宗教的権威を併せ持つ僧兵たちは朝廷や院、摂関家を屈服させ紛争を自分たちに有利に解決しました。日本で初めて院政を行い、絶大な力を持った白河上皇でさえ「賀茂川の水と双六の賽、山法師(比叡山延暦寺の僧兵)は自分の思い通りにできない」と嘆きます。

天文法華の乱

16世紀前半、応仁の乱などが起きて室町幕府が衰退していたころ、京都では町の実権を握る町衆たちが法華宗の信徒となり、京都で法華宗の影響力が強まっていました。

京都にあった法華宗の諸寺院は細川晴元らと手を組み、浄土真宗本願寺派の一向一揆と戦い山科本願寺を焼打ちにしました。

1536年、法華宗の信徒と延暦寺の僧侶が宗教問答した時、法華宗の信徒が問答に勝利します。延暦寺の僧侶が一般信者に論破されたことでメンツを失ったと考えた延暦寺の僧兵たちは法華宗の寺院を襲撃しようとしました。

延暦寺の僧兵たちは近江の六角定頼の援軍を得ると京都市中にある法華宗寺院を攻撃。京都にあった法華宗寺院をことごとく焼き払いました。この一件は天文法華の乱とよばれ、延暦寺の僧兵たちの力をまざまざと見せつける結果となります。

信長による比叡山焼打ち

京都に上洛し急速に勢力を増した織田信長に対し、将軍足利義昭は周辺諸国の勢力を糾合し信長を打倒しようと信長包囲網を形成しました。越前の朝倉義景、近江の浅井長政、甲斐の武田信玄、大坂の石山本願寺などが信長に敵対します。

比叡山延暦寺に浅井・朝倉連合軍が立てこもり、信長と長期間戦う志賀の陣も発生しました。信長は敵対勢力を各個撃破する一方、京都と近江を結ぶ地点にある重要拠点となった比叡山を攻撃しようと考えます。

信長の比叡山攻略の考えに対し、比叡山は伝教大師が開いた由緒ある寺だとして反対する意見もありましたが、信長は耳を貸さず比叡山攻撃に踏み切りました

1571年9月、信長軍は門前町の坂本を焼き払い延暦寺の根本中堂を目指します。3万の大軍に攻められた比叡山延暦寺は信長軍によってすべて焼き払われ、老若男女、僧侶、俗人の区別なく討ち取られました

比叡山が再興されるのは信長が死に、秀吉が権力を握った後になります。

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