室町時代戦国時代日本の歴史

ルイス・フロイスとは?戦国時代の日本を記したポルトガルの宣教師をわかりやすく解説

時には、日本人より外国人のほうが日本のことをよく観察している……ということ、ありますよね。現代でも、鋭い視点で日本の文化や風習を研究している外国人をテレビ番組や雑誌で見かけることがありますが、実は戦国時代にも、日本のことを詳しく観察していた外国人がいたんです。名前はルイス・フロイス。戦国時代ファンの方ならよくご存じかもしれません。今から400年以上も前に、はるばる海を渡り日本へやってきたキリスト教宣教師。彼には文才があり、布教のかたわら日本で見聞きしたことを書き留め、本にまとめる作業も行っています。今回の記事では、ルイス・フロイスとはどのような人物だったのか、その生涯を追いかけてみたいと思います。

宣教師ルイス・フロイスの生涯(1)ポルトガルから日本へ

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ルイス・フロイスが生きた時代は、航海はまだまだ命がけの危険なものでした。そんな中、長い旅路の末、日本にやってきたルイス・フロイス。日本は戦国時代。明日をもわからぬ日々の中、突然現れた異国船に、時代は大きく変わろうとしていました。まずは時代背景とともに、ルイス・フロイスが日本にやってくるまでの様子を中心に解説してまいります。

生まれはポルトガルのリスボン・16歳でイエズス会に

ルイス・フロイス(1532年~1597年)はポルトガル王国の都市リスボンで生まれました。家は貴族の階級であったと伝わっています。

当時のポルトガル、お隣スペイン王国とはライバル関係。15世紀後半にアフリカ大陸南端経由でインド洋に出る航路を開拓し、アジア圏への進出においてはスペインを一歩も二歩もリードしていました。

国家を挙げて、長い航海に耐えうる巨大船を造り、珍しい品々を求めて外洋に繰り出す船乗りたち。インドやアメリカ大陸といった地域が、少しずつ身近なものになりつつあった頃に、ルイス・フロイスは生まれ育ったのです。

1548年、ルイス・フロイスは16歳のときにイエズス会に入会します。

イエズス会とは、1534年に創設されたキリスト教カトリックの修道会のこと。清貧・貞潔・同志的結合を重んじ、布教に注力することを念頭に精力的な活動を行う組織。カトリックを世に広めるためなら、身の危険を顧みずどこへでも出かけていく、強い信念を持った修道会として知られています。創設メンバーのひとりが、あのフランシスコ・ザビエルです。

ルイス・フロイスはイエズス会に入会後まもなく、ポルトガル王国の貿易の拠点のひとつとなっていたインドの西側にあるゴアという都市へ向かいます。ゴアでは、ルイス・フロイスに、運命ともいえる出会いが待っていました。日本へ向かおうとしていたフランシスコ・ザビエルがいたのです。

31歳のとき転機が!病と闘い苦労の末ようやく日本へ

ルイス・フロイスには文筆と語学の才能がありました。

どちらも、異国の不況には欠かせないもの。イエズス会の中でも高い評価を受け、様々な地域に出向いては重要な仕事を任されていたようです。

そして1563年、転機が訪れます。かねてより希望していた日本での布教活動のチャンスがめぐってきたのです。

日本への渡航の許しを得たルイス・フロイスは、まず横瀬浦(現在の長崎県西海市)に上陸します。日本初来日のとき、ルイス・フロイスは31歳になっていました。

長旅の疲れが出たのか、体調を崩すことも多かったようですが、それでも不屈の精神で困難に立ち向かい、日本での布教を続けるルイス・フロイス。1年ほどの間、横瀬や平戸などに逗留して日本語を学び、日本での活動に必要な知識を身に着けていきます。

1565年、ルイス・フロイスは京都へ。日本の政治経済の中心地での布教を許され、すでに都入りしていた宣教師たちとともに布教活動を続けることとなるのです。

京都での布教活動と将軍・足利義輝の死

このころ、日本の政治のトップに君臨していたのが、室町幕府13代将軍・足利義輝でした。武勇に優れた将軍で、新しいものにも理解があり、イエズス会の布教にも理解を示していたと伝わっています。将軍の後ろ盾を得たルイス・フロイスは語学力を活かし、精力的に活動を続けていきました。

ヨーロッパ人たちにとって日本語というものは大変難解。ルイス・フロイスよりも前に日本に来ていたメンバーの中にも、日本語ができる人はほとんどいなかったそうです。

確かに、ヨーロッパのどの国の言葉とも、何ら共通点が見当たらない日本語。不思議な言語に思えたに違いありません。しかしルイス・フロイスは諦めずに日本語を学び続けました。今までも、異国の様々な地域で布教活動を重ねてきた経験から、日本語もいつか必ず習得できるはず、という確信を持っていたのかもしれません。

布教活動は順調かと思われましたが、時は戦乱期。多くの武士たちがせめぎあっていた京都でも、日々争いが絶えない状況。足利義輝が対立する武将たちに襲撃され命を落とすという一大事(永禄の政変)が起きます。

ルイス・フロイスたちは荒れる京都から一時的に避難。大坂・堺にしばらく身を潜めていましたが、翌年、再び京都に戻り、布教活動を再開します。

宣教師ルイス・フロイスの生涯(2)織田信長との出会い

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山あり谷あり、未開の地・日本で苦心しながら布教活動を続けるルイス・フロイス。足利義輝の死後、大々的な活動は難しくなったかと思われましたが、再び戻った京都では、運命の人との出会いが待っていました。その人物こそ、天下取りに動いていた織田信長。日本は本格的な戦国期を迎えようとしていました。激動の時代、ルイス・フロイスは何を目撃したのか。織田信長との出会いを果たしてからのルイス・フロイスの歩み、さっそくたどってみましょう。

意気投合?!天下取りに動く織田信長とルイス・フロイス

尾張の一大名に過ぎなかった織田信長ですが、周知のとおりこの頃、他者を圧倒し、メキメキと頭角を現して乗りに乗っていました。

1569年、ルイス・フロイスは初めて織田信長と対面します。信長は将軍・足利義昭とともに、二条城改築の建築現場に来ており、そこでの対面となったようです。

このころの織田信長はというと、武力で周囲を制圧することはできても、肩書や威厳はまだまだ。天下取りのために京都に入りたくても、そうは問屋が卸しません。

そこで、足利将軍の権力を借りて京都入りを果たそうと画策。当時、越前で身を潜めていた足利義昭(12代将軍・足利義晴の子)を引っ張り出し、15代将軍にしてやるから俺を京都に入れろ、とお願い(脅し)ます。いかにも信長らしいやり方です。

足利義昭を担いで堂々と京都入りを果たした織田信長。そこで、キリスト教なるものの布教をしている宣教師の存在を知ります。

実は織田信長、それまでの仏教の在り方に不満を抱いていました。当時の寺院は強い権力を持っており、全国各地で一向一揆を起こしたり、何かと政治に口出しをしてきたり、勝手に年貢を巻き上げたり、もう好き放題。信長自身は徹底した無神論者だったといわれていますので、仏教や信仰に対して敵意を持っていたのではなく、それを笠に着てのさばる輩が横行する現状に辟易していたのです。

信長はルイス・フロイスと対面し、キリスト教の存在が、仏教のガス抜きに役立つのでは、と考えたのかもしれません。

こうしてルイス・フロイスは織田信長のお墨付きを得て、京都を中心とした畿内地域での布教活動に取り掛かったのです。

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