日本の歴史

もはや芸術!世界に誇る美しき名刀「天下五剣」とは何か?

日本刀といえば古くから武器として使用していたものですが、同時に、神様への奉納品や将軍への献上品として用いられることもあるほど、貴重な品として扱われることもありました。江戸時代に入ると、武士という身分を証明するもの、財産の一部と見られることも。現代でも、日本刀は鑑賞目的の美術品として扱われます。美術館や博物館などに展示されている日本刀も数多くあり、美術品コレクターの間で高値で取引されることも。最近では、若い世代の中にも日本刀の美しさに魅了される人が続出していると聞きます。今回の記事では、数ある名刀の中から「天下五剣」と称される貴重な日本刀についてご紹介いたしましょう。

国宝・重要文化財がずらり!見る人を魅了する「天下五剣」

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天下五剣(てんがごけん)とは、古くから特に名刀とうたわれた5振の刀の総称。いつ頃からそのような呼ばれ方をするようになったのか定かではありませんが、名刀好きなら知らない人はいないほど貴重な品とされています。いったいどのような刀なのでしょうか。見ていると自然と居住まいを直して姿勢を正したくなるほど凛とした輝きを放つ「天下五剣」。ひとつずつご紹介してまいります。

伝説の鬼の首を切り落とした太刀「童子切」(どうじぎり)

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By Kakidai投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

童子切(どうじぎり)は平安時代の刀工・安綱(やすつな/生没年未詳)作の日本刀。

刃長二尺六寸五分(およそ80.3cm)、刀身の厚さ二分(およそ0.6cm)。平安時代後期に作られたとされる名刀です。

名前の由来は酒呑童子退治から。酒呑童子(しゅてんどうじ)とは丹波の山奥に住んでいたとされる鬼の頭目。都に出ては金を奪ったり悪さをするので、源頼光が勅命を受け、頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)とともに退治に出向き、見事酒呑童子の首を切り落としたという伝承です。

荒れ狂う邪悪な酒呑童子の首を切り落とした太刀であるという伝承から、「童子切」の名が付きました。

この話は庶民から親しまれ、能や歌舞伎、芝居の演目になったり、テレビやアニメのキャラクターになることも。それと同時に、童子切も時の権力者から愛され、足利将軍家や豊臣秀吉、徳川家、松平家など、名だたる武将の手元を渡り歩いたとも伝わっています。

昭和に入ってから重要文化財・国宝に指定。現在は、上野恩賜公園内にある東京国立博物館に収蔵されています。

妖怪退治の伝承が残る名刀「鬼丸」(おにまる)

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By Jiruitao我自己 – 投稿者自身による作品照相机, CC 表示-継承 3.0, Link

鬼丸(おにまる)は鎌倉時代初期の名工・国綱による日本刀。

刃長二尺五寸八分(およそ78.2cm)、長く大きく反った形が特徴的な、美しい形状を持つ名刀です。

この刀には、こんな話が伝わっています。

鎌倉幕府執権・北条時頼は、夜な夜な現れる小鬼に悩まされていました。

ある夜、夢の中に現れた謎の年寄りが「太刀国綱である」と名乗ります。かつては名刀と言われた自分だが、汚れた人の手で握られたため錆びてしまい、鞘(さや)から抜けなくなってしまったので何とかしてほしい。妖怪たちを退治したければ錆をとってくれ、年寄りは時頼に向ってそんなことを言うのです。

時頼は太刀国綱の汚れを落として念入りに手入れし、部屋に置いておいたところ、刀が勝手に動いて部屋にあった火鉢の台の細工を切り落とします。なんとこの火鉢の細工こそ、時頼を悩ませていた鬼の正体だったのです。以来、時頼は小鬼に悩まされることはなくなりました。

この出来事が「鬼丸」の名前の由来だといわれています。

このように、鬼丸は北条家の宝として受け継がれていき、足利家、織田信長、そして豊臣秀吉の手に。その後、本阿弥家が保管していたと伝わっていますが、明治に入って明治天皇のもとへ献上。現在では御物(ぎょぶつ:皇室の私有品となっている品)となっています。

薄雲に浮かぶ三日月のごとく「三日月」(みかづき)

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By Association of Cultural Properties、Japan – Portfolio of National tresures Volume 1st, Association of Cultural Properties, Tokyo, 1952-03-30, パブリック・ドメイン, Link

三日月(みかづき)は、平安時代の刀工・三条宗近による日本刀。

刃長二尺六寸四分(およそ80.0cm)、細見で大きく反った形状が非常に優雅で、天下五剣の中で最も美しいと称されることもあります。

「三日月」という名前は、刀の打ちのけから。刃文(はもん)に三日月を思わせる模様が浮かび上がるところから、こう呼ばれるようになったといわれています。

三日月の所有者については、詳しい記録が少ないのですが、豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)が所有していたことがあるのだそうです。ねねの死後、遺品として徳川家に伝わり、以後、徳川将軍家の所蔵品として伝えられています。

戦後国宝に指定され、徳川家から個人の所蔵に移りますが、平成に入ってから東京国立博物館に寄贈されました。

凄まじい切れ味が語り草に「大典太」(おおでんた)

大典太(おおでんた)は、平安時代後期の筑後(現在の福岡県のあたり)の刀工・典太光世の作。三池に住んでいたことから、三池典太と呼ばれることもあります。

刃長二尺一寸八分(およそ66.1cm)。天下五剣に名を連ねる他の4振の刀と比べて長さは短く、身幅の広い独特の仕上がりになっています。

大典太を語るうえで外せないのが、その凄まじい切れ味にまつわるエピソード。江戸時代に入り、徳川幕府の御様御用(おためしごよう・刀剣の試し斬り役)を務めていた山田浅右衛門なる人物が、死体を3つ用いて大典太の試し斬りを行います。大典太の刃は死体を貫き、2つ目までは真っ二つ。3つ目の死体も背骨の辺りにまで刃が入ったと伝わっています。

恐ろしいほどの切れ味。時の権力者たちが手に入れたくなるのもわかるような気がします。

もともと大典太は足利家が所蔵していましたが、足利家没落の後、豊臣秀吉の手に渡り、最終的には加賀の前田家へ伝わっていったのだそうです。

現在では、前田家に伝わる文化財を管理する「前田育徳会」の所蔵となっています。

日蓮上人が所持していた太刀「数珠丸」(じゅずまる)

数珠丸(じゅずまる)は、鎌倉時代初期の刀工、青江恒次による日本刀。恒次は後鳥羽上皇に召喚された12人の御番鍛冶のうちのひとりです。刀剣好きの後鳥羽上皇は全国から刀工を集め、毎月交代で刀を作らせていました。

刃長二尺七寸六分(およそ83.7cm)。

数珠丸は日蓮宗の宗祖・日蓮が信者から護身用にと贈られた太刀といわれています。日蓮はこの刀の柄に数珠をかけていたのだとか。そこからこの名前が付いたと考えられています。

日蓮が亡くなった後は、日蓮の遺物として身延山久遠寺に所蔵されていましたが、江戸時代に入ってから行方知れずに。経緯は不明ですが、明治時代に入ってから、競売にかけられそうになっているところを発見。しかし様々な理由から身延山久遠寺への返納は叶わず、発見者である刀剣研究家杉原氏のとりなしで、現在は兵庫県尼崎市の本興寺というお寺の所蔵となっています。

いつの時代も多くの人を魅了し続ける名刀「天下五剣」

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天下五剣、どの刀も怪しく美しい光を放ち、素人目に見ても希少なものであることがわかります。美しい名刀は他にもたくさんあるとのことで、昨今、ゲームやアニメの影響もあって、若い人たちの間で名刀・名剣への関心が高まっているとも聞きました。誰が言い出したかわからないけれど、いつの間にか自然に「天下五剣」と呼ばれるようになった名刀5振。これからも多くの人から愛され、注目されていくに違いありません。

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