その前に室町時代について簡単におさらい
まずは室町時代のおさらいから。
室町時代とは、足利氏が将軍の地位にあった時代です(諸説あり)。初代将軍は足利尊氏。その孫である義満の頃に全盛期を迎えますが(北山文化。金閣寺などで有名です!)、その後は足利将軍家はじわじわと衰退。代わって全国各地の武士が次々と好き勝手なことをしはじめるようになります。いえ、武士だけではなく農民や僧侶まで武装化をするように。こうして足利将軍家の威光は見る影もなくなり、晩期はいわゆる戦国時代と重なります。
政治的には不安定だったものの、経済的には米の二毛作が普及し生産量が増大するなど、豊かさが見られた時代でした。また、現在の日本家屋の原型はこの時代にできるなど、文化的に大きく進歩した時代でもありました。
なぜ戦乱が多かったのか?
さて、なぜ室町時代には戦乱が多かったのでしょうか?それは、全国を治めていた足利将軍家の支配力が弱く、しばしば反乱を起こされていたから…という理由が第一に挙げられます。また、農民などの身分の低い人々が、自分より目上の人に対し反乱を起こすことも日常茶飯事でした。そして、これが戦国時代のいわゆる「下剋上」の流れへとつながっていくことになります。
そんな乱れに乱れた室町時代の戦乱を5つピックアップしました。
【戦乱その1】日本に天皇が二人いた?南北朝の動乱
室町時代は、そのスタートから戦乱です。それは、初代将軍・尊氏と、ときの天皇である後醍醐天皇との確執から生じました。でもこの2人、もともとは仲が良かったのです。尊氏と後醍醐天皇は、協力して執権・北条氏(室町時代の一つ手前の鎌倉時代に全国を統治していた武家)を滅ぼすことに成功。後醍醐天皇が主導し、尊氏が補佐する「建武の新政」が始まりました。さあ、いよいよ新しい平和な時代が始まるかと思いきや…武士の扱いをめぐって2人は対立。当時有力な武家の筆頭格だった足利尊氏は後醍醐天皇とは別の道を歩むことになったのです。
尊氏は室町幕府を開き、新たに別の天皇を擁立。これにより、日本のなかに天皇が二人いるという異常事態に発展しました。これが約60年間も続く、いわゆる「南北朝の動乱」のはじまりになるのです。
【戦乱その2】日本史上稀に見るドロドロの内紛劇だった観応の擾乱(じょうらん)
南北朝の動乱のさなか、北朝(足利家)の中でも内紛が生じました。尊氏の弟・直義と、足利家の執事(有力家臣)の高師直とが激しく対立したのです。これが「観応の擾乱」。この対立は、尊氏や南朝(後醍醐天皇側)をも巻き込むドロドロとした展開に。擾乱とは、元々は気象用語で大気が激しく乱れることですが、実際のドロドロ具合は、まさに「擾乱」でした。
最終的には、戦いに敗れた高師直が捕縛・護送中に殺害され、直義も兄・尊氏に毒殺されるという悲惨な結末に。まさに争いが尽きない室町時代を象徴するような戦乱ですね。
【戦乱その3】果てなき幕府vs守護大名の戦い…明徳の乱
室町幕府がおそらく最も安定していたと思われる、3代将軍・足利義満の時代。京都には「花の御所」「金閣寺」が建てられ、南北朝も義満の手によって合一されました。しかし、その頃にも戦乱がなかったわけではありません。
代表的なものに、義満が守護大名※1・山名氏を抑え込んだ「明徳の乱」があります。当時山名氏は山陰地方を中心に11ヶ国もの国(現在の鳥取県・兵庫県・京都府など)を領し、室町幕府にとって脅威となる存在でした。そもそも室町幕府は、将軍の下に守護大名と呼ばれる武家が集まったいわば「連合体」のような政権でしたから、権力の基盤が弱かったのです。
義満は山名氏を巧みに挑発し、やがて両者は京都で対決。結果、義満は山名氏を破り、脅威の芽を摘むことに成功しました。
※1 守護大名…一国の支配を実質担っていた大名。例えば、越後の守護大名であれば、越後の支配権を実質担っていました。
【戦乱その4】将軍が暗殺された嘉吉の乱
義満亡き後、幕府は再び弱体化しました。それを立て直そうとしたのが、8代将軍の足利義教です。義教は、義満が明徳の乱で行ったのと同様、自分の脅威となる有力な守護大名などを次々と滅ぼしていきました。そんな状況に危機感を覚えたのが、播磨国(現在の兵庫県)などを領していた守護大名、赤松満祐(みつすけ)です。満祐は「次は自分が滅ぼされる」と考え、その前に手を打つべく、義教を自らの酒宴に誘い出し暗殺。守護大名が将軍を殺害するという前代未聞の事態に発展しました。
結局、その後満祐は幕府によって滅ぼされましたが、幕府の権威はますます低下していくことになりました。この動乱が「嘉吉の乱」です。