奈良時代日本の歴史

名刹にして仏教の母とも言える「比叡山延暦寺」を元予備校講師がわかりやすく解説

西塔エリア

西塔エリアがあるのは東塔エリアの少し北。中心となる建物は釈迦堂ですね。釈迦如来を本尊としているので釈迦堂とよばれますが、この建物はもともと園城寺の金堂でした。しかし、豊臣秀吉の命令により強引に延暦寺西塔に移築されます。

中世にはあれだけいがみ合っていた園城寺から無理やり建物を移築させるというのは、天下人秀吉にしかできない荒業ですね。

最澄の廟がある浄土院は、最澄が56歳で亡くなった時に遺体を安置した場所。西塔と東塔の境目に位置する建物です。西塔で最も特徴ある建物は常行堂と法華堂ではないでしょうか。

全く同じ建物が二つ並んでいて、廻廊で結ばれています。常行堂の本尊が阿弥陀如来、法華堂の本尊が普賢菩薩。どちらも対等の教えであることを示唆するため、同じ建物にしたとのこと。なかなか奥が深いですね。

横川エリア

横川エリアは東塔・西塔とは少し離れた場所にあるエリア。西塔から北へ4キロほど行った場所にあります。横川エリアは第三代天台座主となった円仁が開きました

横川の中心となるのが横川中堂。遣唐使船をモデルにした建物だとのこと。現在の横川中堂は昭和46年に再建されました。

横川エリアには比叡山延暦寺中興の祖と称えられた良源の住居跡とされる元三大師堂があります。良源は比叡山を再興しただけではなく、現代の「おみくじ」の形を発案したことでも知られますね。

また、平安時代末期に活躍した源信の住居跡である恵心堂もあります。源信は浄土宗や浄土真宗の源となる浄土の教えを広め、『往生要集』などを執筆しました。

今も多くの僧侶が修行を続ける比叡山延暦寺

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修業の道場として多くの僧侶を輩出した比叡山延暦寺。最近でも多くの僧侶が修業を行っています。比叡山の峰々をめぐって修業する千日回峰行や十二年間、俗世間との交わりを絶ってひたすら山にこもって修業する十二年籠山行などの厳しい修業も実践。最澄が唱えた「一隅を照らす」ための修業は現代でも続けられています。

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