教養歴史

ロシア帝国最後の皇帝「ニコライ2世」についてわかりやすく解説!

15世紀後半から1917年まで存在したロマノフ朝。このロマノフ朝はロシアの皇帝としてロシアを主導していましたが、ニコライ2世の時代に終わりを迎えることになります。 今回はそんなロシア帝国最後の皇帝であるニコライ2世について解説していきたいと思います。

ニコライ2世の前半生

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ニコライ2世は1868年にアレクサンドル皇太子(のちのアレクサンドル3世)の次男としてロシアサンクトペテルブルクに生まれました。

青年期の頃は女性のような性格だったそうですが、10歳の時に祖父のアレクサンドル2世が爆弾テロで爆殺させると専制政治の強化を決心したんだそうです。

こうしてかなりショッキングな出来事がありながらも父が皇帝に即位すると皇太子としてロマノフ朝を支えるようになり政治のイロハなどを叩き込まれていくようになったのでした。

ニコライ2世の世界旅行

こうして政治について学んでいったニコライ2世でしたが、そんな中両親の勧めや、この当時計画されていたシベリア鉄道の起工式に出席するために世界一周を計画。

まずロシアのサンクトペテルブルクからウィーン・ギリシャへと向かい従兄弟ゲオルギオス王子と面会。ゲオルギオス王子と共にエジプト、英領インド、、英領シンガポール、サイゴン英領香港、上海と広東など歴訪した後に最後に日本を訪問してウラジオストクに行く予定でした。

そして世界を巡りながら1891年4月に日本の長崎に到着。日本の力の入れようは凄まじいもので、ニコライ皇太子を喜ばせるために様々なおもてなしを用意していました。

ニコライ皇太子は自身の日記の中で「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ。」と示すほど日本を気に入っており、このまま日本への旅行は順風満帆に終わると思われていましたが、ニコライ皇太子が京都を観光している途中で大事件が起こってしまうことになるのでした。

ニコライ2世と大津事件

5月に京都を訪問した後、琵琶湖や大津などを観光した後京都に戻る予定でしたが、その途中の大津にて滋賀県警察の巡査であった津田三蔵がニコライ皇太子に斬りかかる事件が発生。

これは人力車の車夫が懸命に津田を止めたお陰でニコライ皇太子は負傷しただけで済みましたが、日本からしたら陸軍最強と呼ばれていたロシアの次期皇帝を負傷させたことは日本にとったら一大事。

日本は明治天皇自ら京都に向かいニコライ皇太子に対して謝罪しましたが、ニコライ皇太子は日本の謝罪を受けてある程度理解を示しており日本が恐れていたロシアの報復は行わないという形で丸く収まりました。

その後大津事件の犯人である津田三蔵は政府によって死刑にさせそうになったところを大審院は司法の独立などによって無期懲役という判決を出し日本の司法権の独立などを証明する結果にもつながります。

その後傷が癒えたニコライ2世はウラジオストク経由でサンクトペテルブルクに帰還することになったのです

ニコライ2世の即位と内政

1886年、父であるアレクサンドル3世が病に倒れ、10月中旬になるとクリミアで寝たきりになり、ニコライ皇太子が摂政として皇帝の公務を代行するようになりました。その後アレクサンドル3世は11月1日に崩御しニコライ2世は26歳でロシア皇帝に即位。

ニコライ2世は日記の中で「皆にあれほど愛されたパパは神に召されてしまった。これこそが聖人の死だ。この悲しい時をどう耐えたらいいのだろう。神様、どうぞお助けください」と書いていますが、とにもかくにもこれによってニコライ2世はロシアの主導者となったのです。

この即位に関してはロシアの民衆に複雑に受け止められ、ロシアの地方議会は皇位継承を祝いつつもニコライ2世に「民の声と彼らの願いの表明に耳を傾ける」ことを嘆願した。これに対してニコライ2世は「ゼムストヴォの会合では、ゼムストヴォ代表が国事に参加するなどという途方もない夢を表明していると知った。皆さんには知ってほしいが、私は全力を挙げて国民の利益に尽くし、忘れがたき我が父がそうしてきたように専制君主制の原則を守るであろう」という演説をもって返答しました。

ニコライ2世はこのように専制政治に対してかなり固執していたことが見られていますが、その即位記念の時の記念祝賀の時にボディンカの惨事と呼ばれる死者1400人出した自然が起きましたが、ニコライ2世はこれを無視。そしてその反応が国民に冷淡と呼ばれるイメージがつけられることになり、ロシア革命の伏線になっていったのでした。

ヨーロッパにおける政策

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ニコライ2世が即位した当時のロシアはとてつもない苦境に立たされていました。中央ヨーロッパではビスマルクによってドイツが統一。さらにフランスやイギリスなどが着実に成長しており、ニコライ2世はロシアを主導していく立場としてこの国々と渡り歩かなければならなくなったのです。

中国の分割

この当時ロシアの最大の関心事は中国・朝鮮への進出でした。ロシアという国はだだっ広い上に港が冬になると凍るという最大の弱点を持っていました。そのためロシアは事あるごとに南に使って進出しようとするのですが、その中でニコライ2世が一番軸としていたのが極東における南下でした。

1894年に日清戦争によって日本が清に勝利すると日本は3億両の賠償金と遼東半島を獲得したのですが、この遼東半島の支配がロシアの南下政策の妨げになることを恐れたロシアは日本に三国干渉を実施。開戦も辞さない態度で日本を脅迫して日本に遼東半島を返還させ、さらに遼東半島の大連という港湾都市を租借することに成功しました。

これによってロシアは極東における足がかりを手に入れることに成功。そしてこの中国に対する権益の拡大はロシアの蔵相であったヴィッテが主導となり、中国の分割を推進。1896年にヴィッテは清の李鴻章と露清密約を締結して、中国東北部の満洲にロシアの鉄道を敷設する権利を獲得し満洲の支配圏を確立させたのです。

義和団事件と日本、イギリスの対立

こうしてロシアは満洲を中心に勢力を拡大していきましたが、これに危機感を覚えていたのが日本でした。日本は三国干渉によって遼東半島を返還したことをかなりショックに思っており、さらにはロシアが満洲に勢力を拡大する事で日本が大国の足がかりとしていた朝鮮半島の勢力圏が危ぶまれるという危険性も出始めていたのです。

さらにイギリスもロシアが南下する事はイギリスの重要植民地であったインドの権益に関わる事だったので、ロシアとの対立が深まっていった日本との同盟関係を模索していくことになりました。

そして1899年に義和団事件が起こるとどさくさに紛れて満洲を完全に占領。危機感を確固たるものとした日本とイギリスは1902年に日英同盟を締結し、ロシアへの対抗を行うことになりました。

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