日本の歴史江戸時代

日本の太平の眠りを覚まさせた「ペリー」を元予備校講師がわかりやすく解説

老中阿部正弘の対応

ペリーをひとまず帰した後、老中阿部正弘はペリー対策に乗り出しました。

国を挙げての態勢を作るため、前水戸藩主の徳川斉昭を海防参与に任命。島津斉彬や松平慶永ら雄藩の藩主とも連携を深めます。

また、幕臣で有能なものを積極的に登用しました。川路聖謨、岩瀬忠震、永井尚志、勝海舟、江川太郎左衛門などがこの時に登用されます。

さらに、江戸湾の防備を強化するため品川沖に台場を構築。その名残が、現在残っているお台場ですね。長崎には海軍伝習所を設置し、伊豆の韮山には反射炉をつくって大砲を鋳造しました。

加えて、阿部は諸藩に開国に対する意見を求めました。しかし、ペリーが去って間もなく将軍家慶が死去しました。このことが事態を大きく動かします。

日米和親条約の締結

家慶の死の知らせを聞いたペリーは交渉を有利に進めるチャンスと考えます。なんと、初めの予定よりも早くペリーが再び浦賀沖に姿を現しました。今度は蒸気戦艦3隻を含む8隻の大艦隊で日本を威圧します。

ペリーは幕府に対し前年に渡した国書への回答を要求しました。その際、ペリーは江戸か品川、川崎での回答を求めます。江戸からなるべく遠ざけたい幕府は横浜村で交渉と回答を行うと決めました。

一か月の交渉の結果、次の内容が決まります。まず、伊豆の下田と蝦夷地の箱館を開港すること。開港場では燃料や食料を供給し、難破船を見つけた時は乗組員を救助することなどが定められます。

さらに、領事を下田に常駐させることや日本が他の国と条約を結んだ場合、自動的にアメリカにも適用されるという片務的最恵国待遇が定められました。

こうして、1854年3月、日米和親条約が締結されます。調印を見届けたペリーは帰国の途に就きました。

ペリーの帰国と幕末動乱の幕開け

image by PIXTA / 53869551

日米和親条約の締結で日本を開国させたペリーは、体調不良に悩まされていました。そのため、香港に寄港した際、アメリカ本国に帰国願を申請。申請が受理されたペリーは艦隊の指揮権を譲って翌年1月12日にニューヨークに帰還します。ペリー来航は幕末日本に大きな影響を与えました。以後、日本は幕末の動乱時代に突入します。

1 2 3
Share: