日本の歴史江戸時代

日本の太平の眠りを覚まさせた「ペリー」を元予備校講師がわかりやすく解説

アヘン戦争

清王朝の最盛期は17世紀から18世紀とされます。18世紀前半に即位し、1796年まで皇帝の地位にあったのが乾隆帝でした。乾隆帝は10回の対外戦争の全てに勝利し「十全老人」と名乗ったほどです。

乾隆帝の死後、清王朝は衰退期に入りました。衰退の理由の一つはイギリス商人によるアヘンの持ち込みでした。

イギリスは綿織物などを清に売り、清から茶や絹織物などを購入していました。しかし、貿易はイギリスにとって赤字となります。イギリス商人は赤字を穴埋めするため、禁止されていた麻薬のアヘンを清の人々に密売しました。

1830年にはアヘンの常用者は500万人以上に達したとされ、清王朝の社会問題となります。アヘン対策を一任された林則徐はイギリス商人からアヘンを没収して焼き払いました。

このことを口実にイギリスと清王朝が戦争となります。これがアヘン戦争でした。アヘン戦争は海軍力に優れるイギリスの圧勝に終わります。

太平天国の乱

アヘン戦争後、清王朝は南京条約を結ばされます。内容は香港島の割譲や自由貿易の実施、賠償金の支払い、関税自主権の喪失など敗戦国である清王朝に厳しい内容でした。

清王朝は賠償金支払いなどのため国民に重税を課します。もともと、異民族である満州族の王朝である清王朝に対し、中国民衆の不満が高まりました。

キリスト教に影響を受けた洪秀全は拝上帝会を立ち上げて布教活動を実施。多くの信者を獲得します。1851年、洪秀全は『滅満興漢』をスローガンとする「太平天国」の樹立を宣言。清王朝に戦いを挑みました。

1853年、洪秀全の軍は長江流域の大都市である南京を占領し太平天国の首都とします。ペリーが日本にやってきた1853年に、中国は大動乱の渦中にあったわけですね。

ペリー来航と日米和親条約

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アメリカ海軍の要職を歴任し、アメリカ=メキシコ戦争などにも従軍したペリーは東インド艦隊司令長官に就任します。アメリカ大統領がペリーに託した任務は日本を開国させること。アメリカ艦隊を率いたペリーは蒸気船艦隊を率いて日本に向かいます。日本では老中阿部正弘を中心に対応策を協議。1854年に日米和親条約を締結します。

アメリカが日本を開国させようとした理由

アメリカが日本を開国させようとした理由は大きく分けて二つ。一つ目の理由は捕鯨船の寄港地を確保するためです。

当時、アメリカは鯨油をとるために盛んに捕鯨を行っていました。アメリカの捕鯨船は日本を寄港地にすることでより長い期間、捕鯨を行うことができるようなります。

二つ目の理由はアメリカが清王朝との貿易に乗り出そうと考えていたから。中国にある清王朝と貿易するには、大西洋からアフリカ、インド洋を経るよりも、太平洋を西進して日本に寄港するルートのほうが、効率が良かったからです。

1851年、アメリカ大統領のフィルモアは東インド艦隊司令長官のジョン=オーリックを日本に派遣しました。しかし、オーリックは旗艦サスケハナ号の艦長とトラブルを起こしたため解任されます。かわって艦隊の指揮と日本との開国交渉を委ねられたのがペリーでした。

ペリー艦隊の出発

日本海国の任務が与えられるとペリーは艦隊の編成を開始。当初は合計13隻の大艦隊を考えていましたが、準備や費用面から船は4隻と定められます。それでも、当時最新鋭とされていた蒸気戦艦2隻を含む強力な艦隊が与えられました。

ペリーは交渉にあたって、日本にプレッシャーをかけるために蒸気戦艦を伴うことを主張していたからです。また、オランダ商館のある長崎での交渉はオランダに妨害される恐れがあるので、長崎以外の場所で交渉することなどを決めていたようですね。

1852年、オランダ商館長は幕府に提出した「別段風説書」でアメリカが日本と国交を求めていることやアメリカ艦隊の日本来訪などについて報告しています。

1852年11月24日、ペリー率いる4隻の艦隊はノーフォークを出港。大西洋からアフリカ、インド洋を経て日本を目指します。各地で石炭を補給しつつペリー艦隊は日本へと向かいました。

ペリー率いる黒船艦隊の出現

1853年5月26日、ペリー艦隊は琉球王国の首府がある那覇沖に現れます。ペリーは琉球王府に上陸して首里城を訪問すると通告。琉球王国は拒否しましたが、ペリーは構わず上陸し武装した兵士を従えて首里城まで行軍しました。ペリーは開国を促す大統領の親書を琉球王府に手渡します。

6月9日、ペリーは小笠原諸島を探検後、関東に向けて航行しました。1853年7月8日、午後5時ころにペリー艦隊は神奈川県浦賀沖に出現します。

日本人にとって、外輪式の蒸気船を見るのは初めての経験でした。浦賀奉行の与力はペリーから書簡を受け取ろうとしましたが、ペリーは最高位の役職者にしか渡さないとして親書の手渡しを拒否します。

これを聞いた老中阿部正弘は国書の受け取りを容認。ペリー一行は久里浜に上陸し、浦賀奉行に正式に書簡を手渡しました。

日本側は「将軍が病気のため返事は来年にする」と回答。ペリーは来年の来航を告げて日本を去りました。

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