将軍継嗣問題
1857年、13代将軍徳川家定は病弱で跡継ぎがいませんでした。そのため、次の将軍をだれにするべきかという将軍継嗣問題がもちあがります。幕府内部では将軍継嗣について意見の対立がありました。
血筋を重視する井伊直弼や譜代大名や大奥は13代将軍家定に血筋が近い紀伊藩主の徳川慶福を14代将軍にしようと考えます。
それに対し、斉彬や前水戸藩主の徳川斉昭、松平慶永、山内豊信ら雄藩の藩主たちは黒船来航や中国で起きているアロー戦争、ハリスによる開国要求などに対応するためには聡明で強力な将軍が必要であるとして一橋慶喜を次の将軍に推しました。
1858年、慶福派の井伊直弼が大老に就任すると将軍継嗣問題は慶福の将軍就任で決着します。斉彬ら一橋派は敗れてしまいました。
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斉彬の挫折と死
大老になった井伊直弼は反対派を徹底的に弾圧する安政の大獄を実施します。安政の大獄は大名、幕臣、藩士、公卿など100名以上を処罰する大規模な反対派の弾圧でした。斉彬は井伊による弾圧に抗議すべく、5,000の薩摩藩兵をひきいて上洛を準備します。しかし、1858年8月、上洛の寸前に斉彬は急死してしまいました。
安政の大獄
大老となった井伊直弼は次期将軍を徳川慶福と決定しただけではなく、日米修好通商条約の調印も決定しました。この井伊の決定に反対する声が全国各地で巻き起こります。
なかでも孝明天皇は勅許がないまま井伊が日米修好通商条約を調印したことに激しく怒りました。京都には反幕府の志士たちが集結します。井伊は反対派を徹底的に弾圧しました。
一橋慶喜、松平慶永、山内豊信らは隠居させられます。梅田雲浜や橋本左内、吉田松陰は死罪とされました。処罰は幕府内部や諸藩だけではなく公家にも及び、左大臣近衛忠熈、右大臣鷹司輔熈らが官職を解かれ出家させられます。
処罰対象者は100名以上に及びました。斉彬自身は処罰の対象になりませんでしたが、ともに手を携えてきた同志の大名が弾圧され強い憤りを覚えます。
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