日本の歴史

日本の象徴「天皇」の苦難と栄光の歴史とは?わかりやすく解説

日本の歴史にとってなくてはならない存在である天皇。日本の偉人たちはこの天皇を利用して権力を牛耳ていました。しかし天皇がどのような歴史を歩んでいったのかを知っている人は少ないです。そこで今回はそんな天皇の歴史について解説していきたいと思います。

神話から歴史へ【欠史八代から古墳時代まで】

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日本で天皇が始めて即位した日。皆さんはご存知でしょうか?

天皇が初めて即位した年日は西暦に直すと紀元前660年2月11日。ちょうど2780年ほど前に初代天皇の神武天皇が即位したのがこの年だと言われています。今でも2月11日は建国記念日と言ったりしますがこの建国は神武天皇が即位して天皇の歴史がスタートした日ということなんですよ。

しかし、この神武天皇から9代目の開化天皇までは実在は不明。本当はいなかったのではないか?とも言われておりいまだ謎のままです。

天皇の存在が確定した古墳の時代

9代目までは欠史八代といって存在していなかったのではないかとも言われていますが、10代目の崇神天皇の頃からは存在していたという説が残されています。なぜならこの頃からヤマト王権に基づく古墳の存在が確定され始めているという研究がなされているからなのです。そして12代になるとみなさんは一回は聞いたことがあるヤマトタケルの父である景行天皇。16代になると大仙古墳でも知られており『仁徳さん』という愛称で呼ばれている仁徳天皇に続いていきました。

しかし、まだこの頃は古墳のありかが見つかっただけであり、文献にはまだ登場したためまだ存在したのかは不明。初めてその存在が明らかとなったのは第26代の継体天皇のことでした。

継体天皇という天皇はある逸話が残されており、元々継体天皇という人は天皇になるとことができない地位でありながら第25代武烈天皇の死後子供がいなかったことによって白羽の矢が当たり天皇となったという話が残されています。もしかしたらこの話は古事記に残されていますが、そうであれば継体天皇が本当は一番最初だったのにもかかわらずこういう風な突如天皇という形にしたことにしたのではないのかと私は思いますけどね。

兎にも角にも日本の天皇は26代継体天皇から存在が確認されたのでした。それでも世界最長の歴史を持つ王朝ということには変わらないのですが。

激動だった飛鳥時代【古墳時代から奈良時代手前まで】

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継体天皇の後天皇の座は安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇へとつながっていきます。

しかし、この時代になって天皇を凌ぐ豪族が現れることになりました。当時日本には天皇の他に各地に豪族という力を持っている家が存在しており、その豪族とともに政治を行なっていくといくのがメジャーなものでした。しかし、その中でも仏教を巡る争いで物部氏を倒した蘇我氏が権力を持つようになります。その権力の強さはとんでもないもので第32代天皇の崇峻天皇が蘇我氏を無視した政治をしていると当時の蘇我氏の当主蘇我馬子は彼を殺害。蘇我馬子は崇峻天皇に代わる新しい天皇として推古天皇をたてました。

日本初の女性の天皇と聖徳太子

崇峻天皇が暗殺されたことによって国内は少し混乱となりましたが、その後天皇の座には推古天皇が即位しました。しかしこの推古天皇はなんと女性。女性が天皇に即位することはこの時が初めてでした。

しかし、これまで男性が務めていた天皇という地位をいきなり女性がやるにはちょっと心許ない。そこでこの時同じくはじめての役職が置かれました。それがのちに平安時代でも紹介することになる摂政という地位でした。

摂政という地位は簡単に言えば天皇のサポート役ということ。つまり天皇がちょっと政治ができない時に置かれたピンチヒッターみたいな役職でした。そしてその摂政にはじめてついたのが皆さんご存知であり、度々お札にもなった聖徳太子だったのです。

聖徳太子は推古天皇の摂政として蘇我馬子と協力をして政治を展開。十七条の憲法や冠位十二階。さらには当時東アジアで栄えていた隋に使者を派遣するなど積極的に政策を実施していました。

聖徳太子がこうして積極的に政治を行えた背景にはこのような史上初の女性天皇によって置かれた摂政という地位に聖徳太子がついたからでしょうね。

蘇我入鹿の暗殺と大化の改新

推古天皇の時代体制は蘇我馬子と聖徳太子がそれぞれの役割を持ち均衡を保っていたためある程度安定した時代でした。しかし、聖徳太子がなくなると徐々にその均衡が崩れ始め蘇我馬子の孫である蘇我入鹿の時代となると聖徳太子の子孫を謀殺。さらに天皇よりも高い丘に住居を構え、天皇を凌ぐ権力を持つようになってしまったのです。この天皇の地位の危機をなんとかしようと立ち上がったのが中大兄皇子(のちの天智天皇)でした。中大兄皇子は蹴鞠の時に意気投合した中臣鎌足(藤原家)と共謀して蘇我入鹿を暗殺。豪族の力をそぎ落として天皇中心の新しい国づくりに着手し始めました。

そして第40代天武天皇の頃になると日本中のすべての土地が天皇のものとする公地公民制が確立。天皇を中心とした中央集権国家が遂に完成したのでした。

ちなみに、天皇と名乗り始めたのはこの天武天皇の頃。天皇を名乗る以前は大王(おおきみ)と名乗っていました。

天皇の絶頂期だった奈良時代【奈良時代から平安時代まで】

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天武天皇が即位したのち、天皇家は文武天皇・元明天皇と続き、そしてこの元明天皇が在位していた時に平城京に遷都。奈良時代がスタートしました。しかし、奈良時代はなにかと飢饉や疫病が多かった時代。元明天皇の跡を継いだ聖武天皇は日本に定着した仏教の力を使って国を救おうと思いつきました。そして作られたのが全国にある国分寺です。

今でも東京に国分寺市があると思いますが、それはこの地域の旧国名である武蔵国の国分寺があったことに由来しているのですよ。

それはともかく、聖武天皇は全国に国分寺を作り、さらに奈良の大仏で有名な東大寺はこの国分寺の総本山として建てられたものです。

この頃の天皇は豪族を振り落とし、名実ともに日本のトップに君臨していました。しかし、この仏教を信用しすぎたのが返って仇となってしまうこともこの当時はあったのです。聖武天皇の跡を継いだ孝謙天皇は当時自身の病を直そうと祈願していた道鏡という怪しいお坊さんにゾッコン。道鏡を高い位置につけて朝廷を大混乱にしたのでした。結局、道鏡は孝謙天皇の死後失脚することになるのですが、この仏教の影響力の拡大が平安京遷都へとつながっていったのです。

藤原氏に支配されていた平安時代【平安時代から承久の乱まで】

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道鏡などのお坊さんが権力を持ち始めたこの頃。第50代天皇である桓武天皇は自身の手で政治をするという親政を行う当時としては珍しい天皇でした。そんな桓武天皇だからこそ仏教勢力から離れた京都へと遷都したというわけなんですね。

そして794年に桓武天皇が平安京へ遷都したことにより平安時代がスタート。それと同時に古都京都の歴史も始まったのでした。

桓武天皇はまず、日本全国を朝廷の支配下に置くために優秀な武将であった坂上田村麻呂に東北地方に住んでいた蝦夷追討するように命令。田村麻呂はこれに見事に答えて東北地方まで天皇の影響力を広めました。さらに、桓武天皇は平安京の街を整備。天皇の親政を見事にやり遂げ天皇の全盛期を築き上げたのでした。

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