室町時代日本の歴史

足利義満はなぜ「金閣寺」を建てた?歴史や北山文化の特徴をわかりやすく解説

京都市北方の北山の地にある鹿苑寺。この寺は、金閣があることから金閣寺とも呼ばれます。金閣寺は、室町幕府3代将軍足利義満によって建てられた北山山荘を義満の死後に寺としたもの。金閣寺は幾度もの戦乱を生き延び、明治時代の廃仏毀釈の荒波を乗り越えます。一度は炎上して灰燼に帰してしまいましたが、現在は再建され当時の姿を今に伝える建物となりました。今回は金閣寺を建てた足利義満と金閣寺の歴史、北山文化の特徴などについてまとめます。

金閣寺の生みの親、足利義満とは

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アニメ『一休さん』でもおなじみの将軍様こと足利義満は、室町幕府最盛期の将軍といわれます。しかし、義満の治世は決して順風満帆ではありませんでした。義満は南北朝を合一させ、強大すぎる守護大名を制圧することで室町幕府の最盛期を築き上げます。また、勘合貿易を行うことで金閣寺などを建立する財源を得ました。

二つに分かれた朝廷を統一した南北朝の合一

1336年、義満の祖父である足利尊氏は京都で光明天皇を擁立して北朝を成立させました。後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、北朝に抵抗を続けます。後醍醐天皇を中心とする朝廷を南朝とよびました。

以来、京都の北朝と吉野の南朝は互いに自分たちこそ正統の天皇だとして譲らず、60年近くにわたって争います。朝廷が二つに分かれて争ったこの時代のことを南北朝時代といいました。

義満は、室町幕府の政治を安定させるためには朝廷を再び統一することが必要だと考えます。そこで、力が弱っていた南朝の後亀山天皇に南北朝合一を持ち掛けました。

1392年、後亀山天皇は足利義満の提案を受け入れ、吉野から京都に帰還。北朝の後小松天皇に三種の神器を引き渡すことで朝廷の分裂は終わりました。

守護大名を制圧し、権力基盤を確立

義満の時代、各地を治める守護大名の力が強まっていました。鎌倉時代と比べ、室町時代の守護は強い力を持ちます。南北朝の動乱の中、北朝も南朝も有力守護大名の協力を取り付けるため、彼らに様々な権限を認めたからでした。

南北朝合一のめどがたつと、義満は強くなりすぎた守護大名の力を削ろうと画策。1390年、一族内部の争いで混乱した伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)・尾張(愛知県西部)の守護の土岐康之を討伐し勢力を削減します。

1391年には山陰地方を中心に11カ国もの守護を兼ねた山名氏を討伐した明徳の乱でも勝利し、山名氏の守護を3カ国に削減。1399年には現在の山口県を中心に勢力を持っていた大内氏を討伐した応永の乱でも勝利します。

こうして義満は、自分に反抗する可能性がある守護大名の力をどんどん削り、室町幕府の力を強めました。

義満にとって大きな財源となった勘合貿易

室町幕府は鎌倉幕府やのちの江戸幕府と比べて、直轄地が少なく財政基盤が弱体でした。そのため、義満は中国を支配していた明との貿易で利益を上げることを考えます。義満が行った明との貿易を勘合貿易といいました。

勘合とは、貿易船が持つ許可証のことです。義満は勘合貿易を幕府の独占事業とすることで莫大な利益を上げることに成功しました。

日本は明に刀剣や硫黄、貨幣の原料となる銅などを「献上」します。これを朝貢といいました。明の皇帝を敬い、献上品をもってくるという形式をとったのです。明は貢物を持ってきた使節に対し、銅線や生糸、高級絹織物、陶磁器などの唐物とよばれた中国産品を「下賜」しました。この貿易で義満はかなりの利益を上げ、幕府財政を強化します。

義満の別荘からはじまった金閣寺

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南北朝の合一や守護大名の勢力削減により室町幕府は政治的な安定期を迎えます。勘合貿易の実施は、義満に莫大な利益をもたらしました。義満は得た収入の一部を使って京都の北山に別荘を作ります。義満の死後、北山山荘は鹿苑寺とされ、山荘の建物の一部だった金閣も鹿苑寺の一部となりました。

金閣を含む鹿苑寺の創建

金閣のある鹿苑寺は臨済宗相国寺派の寺院。鹿苑寺の寺号は足利義満の法名である鹿苑院殿に由来します。鹿苑寺の名目上の開山は鎌倉時代末期の名僧夢窓疎石です。

北山山荘は、義満より以前から西園寺家の山荘として存在していました。しかし、西園寺家が没落した後、手入れもあまりされない状態で荒廃してしまいます。この西園寺家の山荘を義満が譲り受け、本格的に整備しました。

義満が整備した建物の一つが金閣です。義満は京都市内にあった花の御所(室町殿)から北山山荘(北山殿)に移り住み、政務や行事を北山殿で行うようになりました。義満が重要視していた明の施設を歓迎する式典も北山殿で行われます。

義満は51歳で死去するまで、北山山荘で政治を行いました。義満の死後、北山山荘は鹿苑寺とされ、金閣もその一部となります

建築物としての金閣の特徴

金閣は木造3階建ての楼閣建築。鹿苑寺の境内にある鏡湖池のほとりに金閣はあります。湖の背後に金閣がある風景はハンドブックなどでよく見かけますよね。

金閣の3層はそれぞれ、異なった特徴を持ちます。1階部分は貴族の住居に用いられた寝殿造り。2階部分は武士の建物に用いられる武家造り。3階部分は寺院建築で用いられる禅宗様とされることが多いですね。

一説には、義満が貴族世界・武家世界・仏教世界の3つを統率していることを表しているともいわれます。実際、義満は貴族の最高官職である太政大臣、武家のトップである征夷大将軍、引退後に出家しているので、彼のライフヒストリーと一致しますよ。

屋根の上には金銅製の鳳凰が設置されていました。鳳凰は中国神話に出てくる伝説の鳥のこと。藤原頼通が建てた平等院鳳凰堂の屋根にも設置されていますね。また、2004年に制定された新1万円紙幣にも鳳凰は描かれています。3階部分に金箔が張られた金閣は、創建当初からまばゆい光を放っていたに違いありません。

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