日本の歴史明治

形式的な俳句や短歌を否定し写生を主張した「正岡子規」明治時代の文人を元予備校講師がわかりやすく解説

幕末から明治にかけて多くの人物が活躍します。西郷隆盛や木戸孝允のように政治を動かした人物もいれば、北里柴三郎のように医学の分野で活躍した人もいます。文学の世界では夏目漱石が有名かもしれません。俳句や短歌の分野で大活躍したのが正岡子規でした。子規は病気がちだったため36歳の若さでこの世を去りますが、死の間際まで文芸活動をし続けます。今回は正岡子規について元予備校講師がわかりやすく解説します。

学生時代の正岡子規

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正岡子規は伊予国松山藩、現在の愛媛県に生まれました。幼いころに父を亡くした子規は、母方の実家である大原家などの後見を受けて成長します。松山から上京して東大予備門に入学後、帝国大学哲学科で学びました。学生時代の子規がはまったのがアメリカからやってきた「ベースボール」です。

少年時代

1867年、正岡子規は伊予国松山藩の下級藩士の子として生まれました。本名は常規(つねのり)、幼名は処之助といいます。成長してから処之助を昇(のぼる)と改めました。

1872年、父が病死したため、子規はわずか4歳で家督を継ぎます。幼い子規の貢献となったのが母方の実家である大原家でした。祖父の大原観山は松山藩の儒者で、親類縁者にも学問好きが多かったようです。

観山は漢学の教養を教えました。このとき得た漢学の知識や感覚は子規の文章表現の土台となります。子規は学校にも通っていました。最初は末広小学校、のちに武士の子弟が多く学ぶ勝山学校で学びます。

少年時代の子規は「弱味噌、泣味噌」などと呼ばれ同級生たちにからかわれていました。地元の友人で特に有名なのが秋山真之でしょう。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公で、日本海海戦を勝利に導いた名参謀です。

上京して夏目漱石と出会う

1880年、子規は旧制松山中学に入学します。1883年に松山中学を退学して上京。旧藩主である松平家の給費生となり、大学予備門に入学しました。大学予備門とは、東京大学の予備機関として設立された学校です。

子規は松山藩出身者のための組織である常磐会の寄宿舎で生活しました。旧藩の期待がかかった若者の一人だったのですね。

この時、大学予備門には夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らも在学していました。仲良くなったきっかけは落語です。子規は大変な落語好きで借金までして寄席に通ったといいます。夏目漱石とは落語の寄席で出会いました。

夏目漱石が子規の故郷である松山に英語教師として赴任した時、療養を兼ねて帰省していた子規が漱石の下宿で俳句会を開いたのは有名な話ですね。子規と夏目漱石の親交はその後も続き、手紙を通じて近況報告をしあっていたようです。

子規と野球

大学予備門に通っていたころ、子規はアメリカから入ってきたスポーツにはまります。それが「ベースボール」。子規はアメリカから入りたてのベースボールの選手でした。ポジションはキャッチャーです。

子規の野球好きは堂にいっていて、故郷の松山に帰るときにバッドやボールを持ち帰って松山中学の生徒にベースボールを教えたほどでした。

子規は自分の名前である昇(のぼる)から、俳句を詠むときに使う自分の名(雅号)の一つとして野球(のぼーる)と名乗ったほどの野球好きだったので、野球殿堂博物館で殿堂入りしています。

子規は「夏草や ベースボールの 人遠し」や「蒲公英や ボールコロゲテ 通りケリ」などといったベースボールを題材とした俳句をいくつか読みました。

文学者として活躍した正岡子規

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文学好きが高じた子規は哲学科から国文科に転科しました。その翌年、子規は大学を中退してしまいます。母と妹を呼び寄せた子規は日本新聞社に入学して記者となりました。子規は雑誌『日本』で記者となり、活躍の場を新聞に移しまします。子規は写生をモットーとした俳句の刷新運動に力を入れました。

新聞『日本』の記者となる

1892年、帝国大学国文科にいた子規は大学を退学してしまいました。母と妹を東京に呼び寄せた子規は日本新聞社に入社します。

日本新聞社の社長兼主筆は陸羯南。陸は元広島藩主の浅野長勲の援助を受けて新聞『日本』を創刊します。陸は子規のために紙面を提供し、子規の生活をも支えました。

『日本』は国家主義や国粋主義の傾向が強い新聞でしたが、もう一つの売りが「文学」でした。子規は陸から文芸欄を任されます。最初は短歌、次に俳句も手掛けるようになりました。

子規が陸から受け取っていた給料は月給で15円。1893年の小学校の先生の初任給が10円から13円程度であることを考えると、そんなに安月給だったわけでもなさそうですね。

明治時代の1円は現在の1万円から2万円と換算されることが多いので、今風に考えると子規の給料は15万円から30万円の間の価値があったといえます。

子規と病気

正岡子規の「子規」はホトトギスの別名の一つ。ホトトギスの口の中が赤いのは、血を吐くまで鳴くからだという中国の伝説があります。子規が「ホトトグス」に自らをなぞらえた理由は、彼が結核を患い、血を吐くことがあったからでした。

子規は1985年に日清戦争で出兵する近衛師団つきの従軍記者として中国にわたります。しかし、取材は思い通りに行かず、短期間のうちに帰国することとなりました。その帰国中の船で子規は血を吐いて重体に陥ります。

子規は神戸病院に移され、結核と診断されました。明治時代、結核は不治の病です。そのため、結核だと診断されたものはおのずと死を意識する時代でした。

血を吐く自分とホトトギスの伝承を重ね合わせたと思われる句が「卯の花の散るまで鳴くか子規」ではないでしょうか。また、子規は結核菌が脊髄に入り込んで炎症を起こす脊椎カリエスにも苦しみます。子規の生活は病魔との戦いでした。

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